夢野久作とはどんな人?生涯・年表まとめ【経歴やおすすめ代表作品、意外なエピソードも紹介】

夢野久作の年表

1889年 – 0歳「福岡にて夢野久作誕生」

夢野久作の誕生

現在の福岡の様子

1889年1月4日、夢野久作(本名:杉山直樹)は福岡県福岡市小姓町(現在の福岡市中央区大名)に誕生します。父は杉山茂丸、母はホトリという名前でしたが、夢野久作が生まれてすぐに離婚してしまったため、夢野は祖父母に育てられることになりました。

詩経

幼い頃から詩経や四書五経などを習い、4歳にして能楽修行にも入門させられるほど教育熱心な祖父母のもとで幼少期を過ごすことになります。順調に小学校、高等小学校を卒業しますが、夢野が14歳の時に祖父の三郎平が亡くなってしまうのでした。

父・茂丸が夢野久作のもとに帰還

夢野久作は高等小学校卒業後、県立中学修猷館に入学することになりました。5年の歳月をかけて県立中学修猷館を卒業すると、そのタイミングで父・茂丸が夢野のもとへ帰ってくることになったのです。

慶應義塾大学

父の帰還のタイミングと重なった1911年、夢野が22歳の時に慶應義塾大学予科文学科に入学することになり、文学・歴史学を専攻するようになります。その上、慶應大学在学中には同時並行で将校の教育を受け、見事に陸軍少尉に任命されることになるのでした。

1913年 – 24歳「慶應大学を中退し、放蕩生活に」

父・茂丸の影響により慶應大学を中退

文学に興味を持った夢野久作が自ら志願して慶應大学予科文学科に入りましたが、これを文学の嫌いな父・茂丸が快く思っておらず、夢野に中退を迫ります。その影響もあり、夢野は2年間通った慶應大学を中退してしまうことになるのです。

農園 イメージ

その後は農園経営に手を出しましたが、最終的には経営難に陥り、あえなく失敗してしまうのでした。農園経営に失敗した夢野はあてもなく放蕩する生活を余儀なくされるのです。

出家、再度の農園経営、新聞記者として就職と激動の人生に

1913年から1914年にかけての1年あまりを放蕩生活に費やした夢野は1915年に東京都文京区本郷の喜福寺にて出家し、奈良や京都で修行をすることになりました(杉山泰道と改名し、法名を萠圓とした)。しかし、これも長くは続かず、2年ほどで離脱することになります。

昔の新聞 イメージ

その後は再度農園経営に着手しましたが上手くはいかず、父・茂丸の斡旋により、九州日報の新聞記者として就職することになりました。九州日報では取材の記事や童話などを担当することになるのです。

1918年 – 29歳「結婚、そして作家デビュー」

杉山萠圓の名前でまずは童話作家デビュー

1918年には鎌田クラという女性と結婚することになります。翌年1919年には長男龍丸が、1921年には次男鉄児が誕生しました。

白髪小僧 見開き
出典:ひとでなしの猫

結婚後も新聞記者としての活動を継続していきますが、1922年、杉山萠圓の名前で童話「白髪小僧」を発表し、まずは童話作家としてデビューを果たしたのです。この影響もあり、九州日報の家庭欄に童話の発表をしていくことになりました。

「あやかしの鼓」にて作家デビュー

あやかしの鼓 青空文庫

「白髪小僧」で童話作家としてデビューし、九州新聞でも童話を執筆していくことになった夢野でしたが、1924年には小説へも進出を果たし、探偵小説「侏儒」を博文館のコンテストに提出し、佳作を受賞しました。

以後は童話メインで執筆を行っていましたが、1926年に「あやかしの鼓」を雑誌「新青年」に発表し、賞を受賞することになります。これをきっかけに小説家としてもデビューすることになったのです。夢野は小説家デビューを機に九州日報を退社し、本格的に小説家としての活動を開始することになりました。

1 2 3 4

コメントを残す