夢野久作の功績
功績1「狂気と殺人を主題にした小説『ドグラマグラ』が日本探偵小説三大奇書に」
夢野久作の代表作としてもっとも話題に登るのが「ドグラマグラ」です。この作品は原稿用紙にして1200ページ以上にも渡る超大作ですが、夢野の文体はリズム感が良いので、比較的スムーズに読み進めることが出来るというのが一般的な見解です。
「ドグラマグラ」は日本探偵小説三大奇書として「黒死館殺人事件(小栗虫太郎)」と「虚無への供物(中井英夫)」に並べられています。刊行当初から「この本を読破したものは、必ず一度は精神に異常を来たす」と評され、当時、一世を風靡しました。現在でも多くの人に親しまれ、その文章のボリュームの多さと内容の深さは時たま話題となることがあるのです。
功績2「独白体、書簡体で執筆するスタイルを確立!読みやすい文章が完成」
夢野久作の作品は一般的な小説形式で執筆されているものもありますが、独自の形式で書かれているものも多数あります。「支那米の袋」や「悪魔祈祷書」に代表される独白体形式と呼ばれる手法や、「瓶詰地獄」、「押絵の奇蹟」に代表されるような書簡体形式と呼ばれる手法が夢野の編み出した独自の執筆方式で、この特徴から、リズム感よく文章を読み進めることが出来るようになっています。
「ドグラマグラ」も大部分に書簡体形式が用いられており、これが夢野のスタイルとして世間に浸透していったのです。
夢野の作品の他に書簡体形式を用いている有名作品として挙げられるのは「風の便り(太宰治)」、「錦繍(宮本輝)」、「カンガルー通信(村上春樹)」などです。海外作家でもゲーテの「若きウェルテルの悩み」やジーン・ウェブスターの「あしながおじさん」などが書簡体形式で執筆されています。
夢野久作の名言
「胎児よ。胎児よ。なぜ踊る。母親の心がわかっておそろしいのか。」
「ドグラマグラ」に登場する名言です。お母さんのお腹の中にいる胎児が時々動くことを表現した言葉になっています。母親の心臓に近いところにいるために、その心がわかっておそろしいから胎児が動くのではないかという夢野の想像力が発揮された名文です。
「五十、七十、百まで生きても。アッという間の一生涯だよ。何が何やらわからぬまんまに。会うて別れて生まれて死に行く。」
人生の短さ、儚さを説いた名言となっています。47歳でその生涯を閉じてしまった夢野久作ですが、もし100歳まで生きていたならどのような文章を残していったのでしょうか。
「異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。」
こちらも「ドグラマグラ」に登場する言葉です。恋愛や情欲は全て切り離して考えるべきだと夢野は述べています。「異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲」が別々に自分に訴えかけるのか、それとも順番にやってくるのか、色々と考えさせられる表現となっています。
夢野久作にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「慶應ボーイからの出家」
夢野久作は教育熱心な祖父母の影響を受けて、幼い頃から詩経や易経、四書五経などを叩き込まれるなど、学問の習得に関しては人よりも秀でていました。その習慣が功を奏し、福岡県立中学修猷館を卒業すると、慶應義塾大学予科文学科に入学することになるのです。
晴れて慶應ボーイとなった夢野久作ですが、新聞社や出版社の社主を務めたこともある父・茂丸が文学を嫌っていたために、その矛先が夢野にも向けられるようになり、結局慶應大学を中退してしまうことになるのでした。
慶應ボーイをやめてしまった夢野久作は一旦農園経営を経由してから、出家する道を選ぶことになるのです。杉山泰道として京都や奈良で修行を積み、吉野山や大台ケ原山にこもるなど、本格的に禅僧として活動したのでした。
最終的には禅僧の道も途中で投げ出し、父・茂丸に斡旋してもらった新聞記者の地位に落ち着くことになります。
都市伝説・武勇伝2「江戸川乱歩との懇意な関係」
夢野久作は江戸川乱歩と親密な関係にあったことが知られています。江戸川乱歩は夢野の「押絵の奇蹟」を評して、「2、3ページ読むと、グッと惹きつけられてしまった。探偵小説壇においては珍しい名文ということが出来る」と絶賛しました。
2人はその後、それぞれに関しての感想文をお互いに執筆することになります。猟奇社という出版社から「江戸川乱歩氏に『久作論』を頼んだから、夢野氏には『乱歩論』をお願いします」という注文が来たという趣旨の説明が、夢野久作著「江戸川乱歩氏に対する私の感想(猟奇社に依頼された『乱歩論』)」という本の中に記されています。
また、現在も残っている旧・江戸川乱歩邸には夢野久作から贈られたとされる博多人形が展示してあることからも、2人の間には密な交流があったことが伺い知れます。