【年表付】飛鳥時代とは?当時の生活や服装、文化、出来事、人物まとめ

「飛鳥時代の始まりと終わりはいつ?」
「飛鳥時代の文化の特徴は?」
「飛鳥時代に活躍したのはどんな人物?」

飛鳥時代に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか? 「飛鳥時代」とは、豪族の連合政権だった大和政権が、ひとつ統一国家にまとまっていった時代です。大陸に出現した強大な国家「隋」に対し一歩も引かない対等外交を挑み、国内でも大きな改革が行われ中央集権国家である「日本」が誕生しました。

飛鳥時代の寺院「法隆寺五重塔」

そんな飛鳥時代とは、一体どのような時代だったのか?当時の人々はどんな生活を営んでいたのか?また、飛鳥時代にはどんな人物が活躍し、どんな出来事があったのか?そしてどのような文化が栄えたのか?など、飛鳥時代に関してわかりやすくお伝えしていきます。

なお「日本」という国号や、「天皇」という呼び方が使用され始めたのは、天武天皇の時代からとされていますが、本記事では煩雑さを避けるため、それ以前の時代に関する内容も「日本」と「天皇」の呼称で統一しています。予めご了承ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

飛鳥時代とはどんな時代?

飛鳥時代はいつからいつまで?

飛鳥時代の都市があった「飛鳥京跡」

飛鳥時代は崇峻天皇5年(592年)、第32代崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が第33代天皇として即位し幕を開けました。前の時代区分である古墳時代の終期が6世紀末~7世紀末と捉え方が幅広いため、見方によっては、飛鳥時代の初頭と古墳時代は末期は重なる場合もあります。

そして、和銅3年(710年)に都が平城京へと移されたことで、飛鳥時代は終焉を迎えました。つまり、現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地(主に飛鳥板蓋宮、飛鳥宮、飛鳥浄御原宮、藤原京)に都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)~和銅3年(710年)までの118年間が、飛鳥時代と呼ばれる時代区分になります。

この時代の特徴を一言で言うと?

大陸に出現した約300年ぶりの統一国家「隋」の支配領域

飛鳥時代の特徴を一言で表すならば、「日本国が完成した時代」と言えます。もちろん、それ以前から天皇(当時は大王(おおきみ)と呼ばれていた)を中心としたヤマト王権は存在していたのですが、あくまで各地の豪族から成る連合政権であって、ひとつにまとまった「中央集権国家」ではありませんでした。

飛鳥時代は、大陸に「隋(ずい)」という強大な統一国家が約300年ぶりに出現したことで、日本はいつ隋に飲み込まれてもおかしくない状況でした。そこで、隋から文化や制度を学びつつも、互角に渡り合えるよう日本を独立した先進国に押し上げんとし、それを成し遂げた時代が飛鳥時代なのです。

古墳時代との違いは?

古墳時代の象徴「前方後円墳」

古墳時代と飛鳥時代の違いは大きく分けて2つあります。ひとつは前述の通り、連合政権だったヤマト王権が「日本」という中央集権国家として、ひとつにまとまったことです。

そしてもうひとつは、古墳時代の最大の特徴であった前方後円墳が作られなくなったことが挙げられます。西暦538年(552年説もあり)に日本へ仏教が入ってきたことで、各地の豪族は「氏寺(菩提寺)」を持つようになり、祭祀の場が前方後円墳から氏寺へと移っていきました。また大化2年(646年)には、墓の大きさを規定する「大化の薄葬令」が発布され、飛鳥時代には前方後円墳が作られなくなっていきました。

奈良時代との違いは?

奈良時代の「平城京跡」

飛鳥時代と奈良時代の最も大きな違いは都の場所です。飛鳥時代の都が現在の奈良県高市郡明日香村付近にあったのに対し、奈良時代は現在の奈良県奈良市の一部と大和郡山市の一部にあった「平城京」に都が置かれていました。

また、飛鳥時代は「日本を中央集権国家にするため、様々な改革を行い完成させた時代」、一方の奈良時代は「中央集権国家として、実際に国家運営が始まった時代」です。人物の面では、飛鳥時代には「蘇我氏」が大きな権力を持っていましたが、奈良時代に入ると「藤原氏」が台頭してきます。

飛鳥時代の人々の暮らし

飛鳥時代は今からだいたい1400年前です。当時の人々がどのような生活をしていたのか見ていくことにしましょう。

当時の服装や髪型はどうだった?

飛鳥時代の男性の服装

飛鳥時代になると、これまで以上に大陸文化が日本に流入し始めたため、その影響を強く受けることになります。当時の服装は不明な部分が多いものの、位の高い人物は「朝服(ちょうふく)」を着ていたと考えられています。男性は頭に冠をかぶり、上半身は袍(ほう)と呼ばれる裾の長いゆったりとしたものを着用し、下半身には袴を履いていました。女性の服装は、足元まで隠れる長いスカート状のものを着用し、袖もゆったりしていて、肩からスカーフのようなものをかけていたと推測されます。

また、男性の髪型は古墳時代の美豆良(みずら)から、「髻(もとどり)」に変化していきました。髻は冠を被るための髪型で、頭上で髪を結っていました。女性は、ストレートの髪を下ろした「宝髻(ほうけい)」、頭上で結ったアップスタイル「双髻(そうけい)」の2種類があったとされています。

食事は階級によって大きく違った

身分の高い豪族が食べていた「アワビ」

飛鳥時代の食事は身分によって異なります。身分の高い豪族はタイ、アワビ、アユなどの魚介や干し肉など様々なものを食べ、栄養状態も良好だったとされています。ランクの低い役人は玄米を主食とし、他には味噌汁や野菜の塩漬け、酢の物を食べていたようです。また、お酒を嗜むこともありました。

一方、庶民は弥生時代からさほど変わらない食生活だったとされ、玄米に塩、海草の味噌汁、茹でた青菜や山菜などを食べていました。庶民の栄養状態はかなり悪かったようです。

農民は竪穴式住居での暮らし

竪穴式住居のイメージ

飛鳥時代は身分によって住む家にも大きな差があり、庶民たちは弥生時代や古墳時代と変わらず竪穴式住居で暮らしていました。一方で身分の高い人は、複雑な柱の組み合わせからできた立派な建物に住んでいました。

竪穴式住居と言うと、縄文時代や弥生時代の住居をイメージしがちです。しかし、平安時代頃までの一般庶民は竪穴式住居で暮らしていたのです。

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