【年表付】飛鳥時代とは?当時の生活や服装、文化、出来事、人物まとめ

白鳳文化とは?

白鳳文化を代表する山田寺の跡地

白鳳文化は7世紀後半~8世紀初頭の飛鳥時代後期、主に第40代天武天皇、第41代持統天皇の時代に栄えた文化です。飛鳥時代の末期は都が藤原京に移り、その地で栄えた天皇や貴族中心の華やかな文化でした。

白鳳を代表する建造物

山田寺

復元された「山田寺回廊」

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)によって建立されてた仏教寺院。昭和57年(1982年)の発掘調査で回廊の一部が当時の姿のまま発掘され、日本で最古の建築遺構とされました。現在では復元が完了し、奈良文化財研究所の飛鳥資料館で当時の姿を目にすることができます。

薬師寺金堂薬師三尊像

日本における薬師三尊像の最高傑作の一つ「薬師寺金堂薬師三尊像」

「やくしじこんどうやくしさんぞんぞう」。西暦680年の薬師寺創建当初から金堂に祀られているご本尊です。白鳳文化を代表する仏像で中央に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩が安置されています。金堂は戦国時代初期に焼失(享禄の兵火)しましたが、薬師三尊は一部を焼失するも、かろうじての当時の姿を残すことができました。

法隆寺金堂壁画

焼損前の法隆寺金堂壁画の一部

法隆寺金堂の壁面に描かれていた7世紀末頃の仏教絵画です。日本のみならず、アジアの古代仏教絵画を代表する作品の1つでしたが、昭和24年(1949年)の火災でほとんどが焼損してしまいました。

高松塚古墳壁画

高松塚古墳壁画の一部

直径23m、高さ5mの円墳「高松塚古墳」の石室内に描かれた壁画。壁画は石室の東、西、北の壁3面に天井を加えた計4面に描かれており、貴重な文化財として保存活動が進められています。壁画を持つ古墳としては、キトラ古墳も有名です。

飛鳥時代の主な出来事の年表まとめ

飛鳥時代は日本がひとつにまとまっていく過渡期にあたるため、118年の間に様々な出来事が起こりました。以下より、飛鳥時代を代表する出来事を見ていきましょう。

592年:推古天皇の即位

暗殺された崇峻天皇の陵墓

蘇我馬子が不仲だった第32代崇峻天皇を暗殺し、新たに推古天皇を擁立。概ねこの辺りから飛鳥時代は幕を開けます。崇峻天皇の時代にはすでに政治の実権は蘇我馬子が握っており、それを快く思っていなかった崇峻天皇に対して馬子が警戒心を持ったこと、さらに天皇の後継者を誰にするかという政治的な利権が絡み、暗殺へと繋がっていきました。

593年:聖徳太子が政治に参画

聖徳太子が推古天皇の摂政となり、政治を代行しました。前述の通り、この時代の蘇我馬子は絶大な権力を握っていたため、その勢力バランスを緩和するために聖徳太子が政治に参画したと考えられています。また、蘇我馬子から見て聖徳太子は甥っ子にあたるため、蘇我氏が政権内での権威を保つのにも都合が良く、推古天皇を頂点として、聖徳太子と蘇我馬子が絶妙なバランスを取りながら政治が運営されていったのです。

600年:第1回遣隋使の派遣

大海原を渡った遣隋使

遣隋使と言うと、607年の小野妹子を使節とした派遣を思い浮かべます。しかしあれは2回目で、その前に1度遣隋使は派遣されています。しかし、この段階の日本は大国である隋の実力をあまり理解しておらず、軽くあしらわれてしまったようです。また日本の使者が無冠であったため、大恥をかいてしまいました。

603年:冠位十二階の制定

冠位十二階を制定した聖徳太子の墓所

これまでは豪族ごとに世襲で身分や仕事が決められていました。しかし、そのままでは隋と対等に渡り合えないと考えた聖徳太子は、個人の能力に応じて適切な位を与える制度「冠位十二階」を制定しました。冠位十二階は全部で12のランクがあり、冠の色でそれぞれの地位が区別されていました。1回目の遣隋使では、日本の使者が無冠で大恥をかきましたが、冠位十二階が制定されてことで、使節のランクを明確に示せるようになったのです。

604年:十七条憲法の制定

聖徳太子像

聖徳太子は冠位十二階に続き「十七条の憲法」を定めました。「十七条憲法」は役人の心構えと理想の国家像を説いたものです。その第一条「和を以て貴しとなす」は特に有名。日本の歴史を通じ、十七条憲法の精神性はいつの時代の日本人にも常に受け継がれてきました。そしてその精神は現代も続いています。なお、冠位十二階や十七条憲法の制定には、蘇我馬子も関わっていたとされています。

607年:小野妹子を遣隋使として派遣

当時の隋の皇帝「煬帝(ようだい)」

約300年ぶりに大陸に出現した統一国家「隋」。この隋から文化や制度を採り入れるため、あるいは対等外交を行うため、1度は遣隋使を派遣したものの散々な結果に終わりました。そこで冠位十二階や十七条憲法を制定し国内の改革を進めたうえで、二回目の遣隋使に臨みました。

この時の使節だった小野妹子が携えていた国書の一文「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」は、隋に対して日本が独立国家であることを示すとともに、対等外交を行うにあたり一歩も引かないと言う強い意思表示でもあったのです。

630年:遣唐使を派遣

復元された遣使船

大陸では618年に隋が滅亡し、新たに「」が建国されました。日本は引き続きから先進的な文化を取り入れるため、630年に初の「遣唐使」を派遣します。遣唐使は一時中断されたものの、894年菅原道真によって廃止されるまで継続的に派遣され続けました。

645年:乙巳の変

蘇我入鹿を討ち果たした「乙巳の変」

専横を極めた蘇我入鹿を排除するため、中大兄皇子と中臣鎌足が起こした日本古代史最大のクーデター事件。645年6月12日、この日は朝鮮半島の三国(百済・新羅・高句麗)から使者を招き、公の儀式が行われていました。この儀式に参加していた蘇我入鹿を中大兄皇子が襲撃。入鹿は斬り伏せられました。また、入鹿の父である蘇我蝦夷も自害に追い込まれ、権力の絶頂にあった蘇我氏は滅亡しました。この事件を「乙巳の変」と呼びます。

646年:改新の詔を発布

改新の詔を発布した第36代孝徳天皇の陵墓

乙巳の変で蘇我氏を討ち滅ぼし、日本は中央集権国家を目指してさらに突き進んでいきます。645年には日本初の元号「大化」が定められ、翌646年には「改新の詔(かいしんのみことのり)」が発布されました。改新の詔とは、天皇を中心とした統一国家(律令国家)を作るための詔書で、これにより公地公民制が採用され「班田収授法」が採用されました。また、670年には日本で初めて戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」が作られます。

天皇を凌駕する権勢をふるっていた蘇我氏を排除したことで、天皇を中心とした体制づくりが着々と進んでいきました。乙巳の変から続くこれら一連の改革を「大化の改新」と呼んでいます。

663年:白村江の戦い

当時の朝鮮半島の勢力マップ

この当時、朝鮮半島には百済、新羅、高句麗の三国が並立していました。その中でも特に日本と百済は友好関係にありました。しかし660年、大陸の唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼす事態が発生。国を失った元百済の武将たちは、百済を再興させるため日本に援軍を求めてきました。日本はこれを受諾し、663年に朝鮮半島へ渡海し唐・新羅連合軍と戦いましたが敗北。この出来事を「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい/はくすきのえのたたかい)」と呼びます。

672年:壬申の乱

乱時に大海人皇子が兜をかけたとされる兜掛石

671年に天智天皇(中大兄皇子)が崩御しました。これにより、天智天皇の弟「大海人皇子(おおあまのみこ)」と、天智天皇の息子「大友皇子」の間で後継者争いが勃発しました。この戦いが古代史最大の戦いと呼ばれる「壬申の乱」です。

壬申の乱は後継者争いという側面だけでなく、唐と新羅のどちらに味方するのか?という大陸情勢も大いに関係していたとされています。一時は結託して百済を滅亡に追い込んだ唐と新羅が内輪もめを起こし、日本もどちらに味方するかを迫られていました。天智天皇は唐への服属路線に傾いていたため、その息子である大友皇子が「親唐派」。一方、唐への服属を良しとしない者たちが大海人皇子を中心に「親新羅派」となり激突しました。結果、大海人皇子が勝利し大友皇子は自害。こうして大海人皇子が即位し第40代天武天皇となるのです。

681年:古事記、日本書紀の編纂開始

現存する日本最古の歴史書「古事記」

天武天皇の時代になり、中央集権国家を目指す国づくりも最終段階を迎えます。その一環として行われたのが、日本の成り立ちを記録する歴史書の編纂でした。古事記は太安万侶(おおのやすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)によって国内向けに編纂され、日本書紀は舎人親王(とねりしんのう)が中心となり海外向けに編纂されたと考えられています。そして古事記は和銅五年(712年)に、日本書紀は養老4年(720年)に完成しました。

なお、古事記編纂時に太安万侶が日本語の話し言葉に対し、当て字として漢字を使用、それが万葉仮名の元となり、平安時代に多くの女流文学で使用される「かな文字」として確立、現代日本人が使用する「ひらがな」へと変化していきました。

694年:藤原京に遷都

藤原京の見取り図

飛鳥時代は奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地周辺に都が置かれており、飛鳥板蓋宮、飛鳥宮、飛鳥浄御原宮などに宮を移動してきましたが、その最後を飾ったのが「藤原京」です。藤原京は、日本で最初の条坊制を布いた本格的な唐風の都でした。なお「条坊制」とは、後の平城京や平安京に見られる碁盤の目のように区画整理された都市のことです。

701年:大宝律令と「日本」という国号の始まり

大宝律令を発布した第42代文武天皇

701年大宝律令が発布され、聖徳太子の頃より悲願であった中央集権国家が遂に完成します。律令の「律」は刑法、「令」が憲法です。この律令に則った天皇中心の国家体制が完成したのです。現代風に言うと、「日本が法治国家になった」と捉えるとわかりやすいです。

大宝律令の発布を持って、日本は独立国家として古代の東アジアにおける先進国となりました。そして「日本」という国号、「天皇」という呼称が確立され、現在もその流れが続いています。

708年:日本初の通貨が発行される

日本初の流通貨幣「和同開珎」

708年には日本で最初の流通貨幣である「和同開珎(わどうかいちん)」が製造されました。和同開珎以前にも「富本銭(ふほんせん)」という貨幣が存在していましたが、富本銭はあまり流通していなかったとされ、ゆえに和同開珎が日本で最初に流通した貨幣と位置付けられています。

710年:飛鳥時代の終焉

710年に都が藤原京から平城京へと移されました。こうして飛鳥時代は終焉し、奈良時代へと突入していきます。

飛鳥時代に関するまとめ

いかがでしたでしょうか?飛鳥時代とは、古墳時代に産声をあげたヤマト王権が、現在まで続く「日本」に変わっていく過渡期であり、日本の成り立ちを知るうえでとても重要な時代です。

大陸に出現した隋という強大な国家に対し、一歩も引かぬ姿勢を示し互角に渡り合ったその気迫、そして大宝律令をもって中央集権国家を実現したその歴史は、欧米列強の脅威に屈せんとし、明治維新を成し遂げ、近代日本を作り上げた幕末から明治の流れとよく似ています。そういった意味でも、飛鳥時代とはこれからの国際情勢を生き抜く上でも学ぶことの多い時代と言えるのではないでしょうか。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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