【年表付】飛鳥時代とは?当時の生活や服装、文化、出来事、人物まとめ

飛鳥時代を代表する人物

飛鳥時代になると、歴史の授業でもお馴染みの人物がたくさん登場してきます。以下より、この時代を特に代表する人物を簡単に見ていきましょう。

聖徳太子

日本の礎を固めた「聖徳太子」

現代にいたるまで、日本の歴史を通して多くの日本人の心の拠り所になり続けている偉人。昨今では「厩戸皇子(うまやとのみこ)」と称されることもあります。

冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣など多くの改革を実行し、後に中央集権国家となる日本の礎を築きました。大陸との対等外交を目指し、隋の煬帝(ようだい)にあてた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」から始まる国書はあまりにも有名です。

推古天皇

日本初の女帝「推古天皇」

第33代天皇で日本における史上初、さらには東アジアでも史上初の女帝。第29代欽明(きんめい)天皇の皇女なので男系の女性天皇です。前代の崇峻天皇が後継者を決めぬまま崩御したため、後継者争いを避ける目的で女性の天皇を擁立したとされています。聖徳太子を摂政とし、蘇我馬子らと改革を推し進め日本の独立を守りぬきました。

蘇我馬子

蘇我馬子の墓と伝わる石舞台古墳

敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えた人物。約54年にわたり権勢を振るい続け、蘇我氏の全盛時代を築きました。権勢を振るい、不仲となった崇峻天皇を暗殺するという悪行の後、政治的理由から推古天皇を擁立したりもしていますが、聖徳太子とともに多くの改革を進めた人物です。

小野妹子

小野妹子の墓と伝わる妹子廟

遣隋使の1人として隋へ赴いた人物。「妹子」という名前ですが男性です。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」の国書は妹子が携えていたとされています。なお、妹子が隋への使節になったのは2回目の遣隋使で、それ以前に1度使節が派遣されています。

中大兄皇子

乙巳の変で蘇我入鹿を討った「中大兄皇子」

乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿を討ち、大化の改新を行った有名な人物です。後の第38代天智(てんぢ)天皇。国土防衛のため防人(さきもり)を設置、日本初の戸籍(庚午年籍)を作成するなど、中央集権国家に向けて多くの改革を行いました。なお、百人一首の一番初めに集録されている和歌は、中大兄皇子(天智天皇)のものです。

中臣鎌足

乙巳の変の首謀者の一人「中臣鎌足」

中大兄皇子とともに乙巳の変を主導した人物。一説によると、蹴鞠をしていた中大兄皇子の靴が脱げ、たまたま鎌足の前に落ちたことで知り合いになったと言われています。そして蘇我氏の専横を憂い意気投合し、大化の改新へと突き進んでいきました。晩年には「藤原」の姓を賜い、その子孫が藤原一族として大いに繁栄していくことになります。

蘇我入鹿

蘇我入鹿の首塚

飛鳥時代に絶大な権力を持っていた蘇我氏の一人。蘇我馬子の孫にあたる人物です。その権力を背景に政権内での地位を確固たるものにしたものの、専横が過ぎたために乙巳の変で討たれることになってしまいました。これまでは悪役として印象が強かったのすが、昨今では先進的な考えを持っていた人物として、見直しが進められています。

額田王

額田王の歌碑

名前は「ぬかたのおおきみ」と読みます。女性皇族であり歌人。天武天皇の妃となり十市皇女を授かりました。絶世の美女としても名高く、天武天皇の兄、つまり天智天皇(中大兄皇子)の寵愛も受けたと言われています。歌人としての才能にも恵まれ、その和歌は万葉集にも採用されています。

柿本人麻呂

飛鳥時代を代表する歌人「柿本人麻呂」像

名前は「かきのもとのひとまろ」と読みます。歌人として有名な人物です。和歌の名人を集めた三十六歌仙の一人に名を連ね「歌聖(うたのひじり)」と讃えられた名歌人。その和歌は万葉集や百人一首にも選出されており、万葉集における最大の歌人とも称されています。

天武天皇

初めて天皇の称号を用いた「天武天皇」

第40代天皇。日本古代史で最も大きな争いと言われる壬申の乱に勝利し、天皇を中心とした体制を作り上げ、日本を古代の先進国に押し上げた名君です。現存する日本最古の歴史書である古事記と日本書紀の編纂を命じたのも天武天皇でした。また、国名を「日本」としたのも、「天皇」という呼称を用いたのも、天武天皇が始まりとされています。

持統天皇

天武天皇の皇后で女帝「持統天皇」

第41代天皇。天武天皇の皇后で、日本史上3人目の男系女子の天皇です。天武天皇、持統天皇の治世は、天皇の政治権力が絶頂期に達した時期でした。初めて火葬された天皇としても知られてます。

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