武者小路実篤はどんな作家?生涯・年表まとめ【功績や作品、名言についても紹介】

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は明治時代に生まれ、大正、昭和の時代にかけて活躍した小説家ですが、小説家以外の活動でも有名です。味わいのある絵を書き、理想の生き方を貫くために村まで作りました。こだわりなく何にでも挑戦するために、一貫性がないと言われたこともありました。

小説家以外にもいろいろな面を持つ武者小路実篤

上流階級に生まれた実篤は志賀直哉らとともに、わずか25歳で文芸雑誌「白樺」を創刊します。白樺は当時の日本の文芸・美術界に大きな影響を与えました。

また、実篤はトルストイの思想(社会の不正を許さず、自分の欲望に負けずに、弱者に尽くす)にも影響を受けました。そして階級間で争うことなく、皆が平等に農作業をして芸術を楽しむ理想郷を作ろうと思い立ち、「新しき村」を宮崎県と埼玉県に作りました。

第2次世界大戦の後は戦争協力を問われ、一時は表舞台から姿を消すかと思われましたが、実篤はへこたれませんでした。日本の文化を守るために新しい文芸雑誌を創刊、多くの人たちの作品を募るだけでなく、自らも作品を生み出します。

その底に流れていたのは、自分と人の違いを認めあい、許す精神でした。実篤は戦争で痛手を受けた人々に、文学作品を通して希望を与えたのです。

今回は、あくまでも自分の心に忠実に自由に生きた作家・武者小路実篤について解説していきます。功績などの光の当たる部分だけでなく、彼の影の部分も詳しくお伝えしていきたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

武者小路実篤とはどんな人物か

名前武者小路実篤
誕生日1885年5月12日
没日1976年4月9日
生地東京府東京市麹町区
没地東京都狛江市
配偶者竹尾房子・飯河安子
埋葬場所東京都八王子市・中央霊園、埼玉県入間郡・新しき村納骨堂

武者小路実篤の生涯をハイライト

由緒正しい家柄だった武者小路家の家紋「三条花菱」

1885年、現在の東京都千代田区の武者小路家に第8子となる男の子が誕生しました。公卿の家柄だった武者小路家で男の子は実篤と名付けられます。学習院の初等科から、高等科へと進むうちに文学の世界へと足を踏み入れた実篤は、その後東京帝国大学に進学しました。

学習院では生涯の親友となる志賀直哉と出会い、25歳で文芸雑誌・白樺を創刊。本格的に文学の道へと進んでいきます。

時代を揺るがす大きな出来事ともに、人生の浮き沈みを経験した実篤は第2次世界大戦が終わった後は、それぞれの個性を認めあえるおおらかな精神へと到達したようです。著作や絵画作品にもそれが表れて、多くの人たちを惹きつけました。

志賀直哉とも互いの個性を認め合いながらの、よい付き合いが続きました。志賀が亡くなったときは、実篤が弔事を読みましたが、その悲しみの深さが伺えるようだったと言います。

志賀の死後5年で、実篤もこの世を旅立ちます。何事にも縛られない、自分の考えに忠実に生きた90年でした。

実篤の恵まれた生い立ち

学生時代に実篤は夏目漱石の作品を愛読していた

武者小路家はもともと公卿の家柄でした。父の武者小路実世は帝国憲法の発布にも関わった人物で、子爵になっています。

そのため実篤は、小学校から高校までは学習院で学び、その後は東京帝国大学に入学しますが、文学に専念するために退学してしまいます。そして学生時代に知り合った志賀直哉、有島武郎らと文学雑誌「白樺」を創刊しました。

このようなことから、裕福な家庭に育った人ゆえの、順風満帆な前半生だったように思われますが、実篤が2歳のときに父が結核で死亡しています。そのため、家柄が良かった割にはお金の苦労もしたようです。傍が思うほど、実篤の人生は1点の曇りもないというわけにはいかなかったようです。

実篤、理想郷を目指すも失業へ

1919年頃の写真・宮崎県に作られた「新しき村」であろう

実篤は日露戦争のときは、戦争はいけないという考えを持っていました。これは彼が聖書や仏教書を読み、さらにはトルストイの作品にのめり込んだことで培われたようです。

実篤は階級間の争いがない、平等で平和な社会を目指し、1918年と1939年に理想郷として「新しき村」を作りました。村を支えるためには多額の資金が必要になりましたが、実篤はこれを執筆活動でまかないました。しかし、この後関東大震災で生家が全焼、白樺は終刊してしまいます。

大正時代の終わりから昭和の始めにかけて、世の中の文学の流れが変わったためか、それとも世界恐慌が起こり世の中の人々が文学どころではなくなってしまったのか、実篤への執筆依頼は途絶えてしまいます。

この時代のことを実篤は「失業時代」と呼び、伝記文学を多く手掛けました。人生に行き詰まったであろう実篤は、さまざまな人の伝記から何かを学んでいたようです。題材となった人物はトルストイ、二宮尊徳一休に釈迦とバラエティに富んでおり、興味深く感じられます。

実篤、かぼちゃの絵が表す穏やかな暮らし

実篤の絵には、かぼちゃがよく使われている

ヨーロッパ旅行で受けた屈辱的な扱いにより、実篤は第2次世界大戦中には戦争に賛成していました。日本文学報国会で世間の人たちの考えを戦争に賛成する方向に調整するため、戦意を喪失するような作品は世に出さない、などの戦争協力をしたのです。

このため戦後は公職追放の処分にあった実篤。そのような状態でも、占領下の日本文化を守るためにと雑誌・心を創刊しました。また、自らの新しい作品を発表することで、戦争で痛手を受けた人々の心を救おうとしました。

実篤の心が周りにも通じたのか、1951年には追放処分が解け、文化勲章を受章します。そして待っていたのは、子や孫に囲まれた穏やかな暮らしでした。

志賀直哉との友情も人生の最期まで続きます。実篤はもはや自分の考えだけに縛られた人間ではなく、自分も人も同じように認められるおおらかな精神を手に入れていました。

そんな彼を象徴するのが、野菜の絵を描き、言葉を添えた色紙です。無骨だが優しい絵と温かな言葉(後で名言として紹介します)は、彼の人柄と生き方を表しているように感じられます。

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