武者小路実篤の年表
1885年 – 0歳「実篤、誕生」
親友・志賀直哉の誕生
実篤が生まれる2年前、宮城の石巻で志賀直哉が誕生します。父は銀行員で後に財界の重要人物となり、母は伊勢亀山藩士・佐本源吾の娘だったそうです。
実篤と2歳違いの志賀ですが、学習院時代に2度留年したために実篤と同級生となり、長い付き合いをすることになりました。
実篤が自分の理想郷「新しき村」を作った時は、度々資金難に陥りました。それを志賀は何度も助けて、実篤を支えたのです。
父・実世が亡くなる
1851年生まれだった実世は、20歳の頃には岩倉使節団の留学生としてドイツに2年半滞在し、新しい教育を受けた人でした。日本に帰ってきてからは、区議会議員や裁判所の判事などを務めた後、帝国憲法の発布に関わりました。
1884年に子爵になりますが、それからわずか3年ほどで結核のためにこの世を去ります。まだ37歳という若さでした。実篤の姉も結核のために21歳の若さでこの世を去っているため、実篤の長命は、まるで奇跡のように思われます。
1891年 – 6歳「学習院初等科に入学」
白樺派の始まり?志賀直哉との出会い
学習院に入学した実篤。得意科目は意外なことに算数で、作文や図画は苦手だったそうです。これは孫の知行さんも実際に実篤から話を聞いていました。特に算数については自信があったようで、その方面に進めば、博士になっていたかもしれない、と話していたということです。
中等科6年生のときには、2歳年上の志賀と同級生として出会います。高等科になるとトルストイに夢中になる他に聖書や仏教に関する書を読み、自らの精神の土台を作っていきました。また、この頃から夏目漱石の作品も愛読するようになったようです。
雑誌・白樺の創刊
1906年に東京帝国大学に入学した実篤。翌年には志賀たちとともに、学習院出身者たちで十四日会を立ち上げ、創作活動を開始します。この年、創作に専念するためという理由で大学を退学。1910年には雑誌・白樺を創刊します。
いよいよ作家・武者小路実篤が動き始めるわけですが、学習院時代の積み重ねがなければ彼の作家人生はあり得ないことだったでしょう。
1913年 – 28歳「実篤、最初の結婚」
竹尾房子
1892年に生まれた房子は青踏社(女性文芸誌・青鞜を発行していました)の社員でした。実篤の元を訪れたことが結婚するきっかけとなったそうです。青踏社の仕事が2人を結びつけたのかもしれません。
新しき村ができると実篤とともに入村しますが、実篤はすぐに村を離れます(これは執筆活動で村を支える収入を得るためとも、実篤が2番目の妻となる飯河安子と恋愛問題を起こしたからとも言われています)。
実篤が村を離れた後も房子は残り、杉山正雄と結婚します。実篤は2人を自分の養子にして武者小路姓を名乗らせ、新しき村の未来を預けました。2人は宮崎県に作られた新しき村(後の日向新しき村)のために人生を捧げたのです。
飯河安子
1899年生まれの安子。旧姓の飯河は「いごう」と読みます。彼女は22歳で新しき村に入村、実篤の身の回りの世話をしていたそうです。結婚後も2人の仲は良く、3人の娘にも恵まれました。
安子は日本画を習っていたそうで、実篤が絵を描き出したのは安子に影響されたのかもしれません。安子は実篤と娘が仲睦まじくコタツに入っている様などを、スケッチして残しています。
1973年から安子はガンのために何回か入院しますが、実篤はこれをとても悲しみました。結局安子は1976年に77歳で死去、実篤も後を追うように2カ月後に亡くなってしまいます。
1918年 – 33歳「実篤、新しき村を作る」
新しき村のスタートは前途多難だった?
自らの理想の暮らしを実現するために、宮崎県に新しき村を作った実篤。早速妻の房子を伴い入村します。階級間の争いをなくすために、皆が平等に同じ時間、農作業をして、利益を分かち合う暮らしを目指した新しき村でしたが、最初からうまくいったわけではなかったようです。
実際に村人の生活を支えるためには、多額の現金が必要になり、実篤をそれをまかなうべく、村を離れて執筆活動を続けます。それでも実篤の経済は度々危機的状況になり、親友の志賀から借金をするようになるのです。
また、ダム建設のために新しき村が半分ほど水没してしまう事態になり、移転を余儀なくされました。このことが後に埼玉県入間郡にもう1つの新しき村を作るきっかけとなりました。
もう1つの新しき村
1939年、埼玉県入間郡に実篤は新たにもう1つの村を作りました。やはり村には住まず、金銭的に村を支えましたが、村に住んだ6年間の経験は実篤の作家としての活動に大きな影響を及ぼし、村の人々にとっても、実篤の存在が精神的な支えとなりました。
実篤は孫が生まれてからは、孫を連れて新しき村に帰ることをとても楽しみにしていたと言います。実篤の孫・知行さんは1台の車にすし詰め状態で新しき村のお祭りに出かけたことが今も楽しい思い出として残っているそうです。
実篤にとって新しき村は自分の心の内がそのまま表れたものだったのでしょう。だからこそ、大切な存在であり、幼くて純粋な孫たちに見せてやりたかったのかもしれません。