武者小路実篤の功績
功績1「大正の日本文学に影響!雑誌・白樺の創刊」
白樺は1910年に創刊されました。実篤や志賀直哉など、上流階級の青年たちによって創刊されたために、否定的に捉えられることもあったようですが、文学作品の発表だけでなく、ロダンやセザンヌなど、今では誰でも知っている西洋美術の紹介や美術展の開催もしていました。白樺が日本の文学や芸術界に大きな影響を与えたことは間違いありません。
特に実篤による夏目漱石の「それから」の評論は、漱石自身から好意的に受け入れられ、それが実篤と漱石の交流に結びつきました。
残念ながら白樺は関東大震災の影響で、発行できなくなってしまいましたが、その後も実篤と志賀の交流は続いていきます。
功績2「実際に理想郷を作った!新しき村とは」
自らの理想郷を実現するため、本当に村を作った実篤。宮崎県に作った村が、ダム建設のために半分以上水没してしまったため、20年ほど経った後、埼玉県にもう1度村を作りました。
実篤が実際に村にいた期間は短いものでしたが、村の外に出た後も執筆活動で村を支え、お互いになくてはならない存在となりました。
孫が生まれてからも定期的に村に通うのが実篤の楽しみだったようです。現在でも実篤が作った新しき村では、自分の理想通りに生きたいと考える人たちが農作業に励み、芸術を楽しむ暮らしをしています。
新しき村を実篤の単なる理想と切り捨ててしまうこともできますが、現在私たちの暮らしている社会は、格差社会などと呼ばれて、辛い思いをしている人たちがたくさんいます。新しき村の存在はそんな今の社会を見直すよいきっかけになるはずです。
功績3「戦後の日本文化を守るために!雑誌・心の創刊 」
1936年のヨーロッパ旅行で、黄色人種として差別的な扱いを受けた実篤。そのことが彼を戦争協力へと駆り立てました。
これが影響して、終戦後に実篤は軍国主義の象徴とされ、公職追放を受けました。実質的に実篤は何の仕事もできなくなったのです。
しかし、そんな状況だった1948年、実篤は占領下の日本で独自の文化を守りたいと雑誌・心を創刊します。創刊号には、実篤のお互いの個性が違うことを認めた上で、互いに教わろう、本音を出そう、という考えが書かれ、世間の人たちの心を揺らしました。
たとえ1度は間違っても新たな教えを乞い、自分のものにして、立ち上がっていきたいという実篤の精神は、敗戦で萎縮していた人々の心を救い、文化を守ることにつながったに違いありません。
実篤が雑誌・心を創刊することで、日本の文学は救われ、実篤自身も再び活躍するきっかけとなったのです。
武者小路実篤の名言
仲良きことは美しき哉
晩年、野菜の絵とともに実篤が好んで色紙に書いた言葉です。戦争経験の後、お互いの個性を認めた上で、教わり合うことがあると悟った実篤の気持ちが表れているようです。
この言葉はお互いが違うから拒絶するのではなく、違うことを認めて、それでも仲良くできることの尊さを私たちに教えてくれているのでしょう。
君は君 我は我なり されど仲良き
この言葉も実篤は好んで色紙に書きました。これもまた、お互いの違いを認めた上で仲良くすることの尊さを教えてくれています。
親友・志賀直哉への手紙にも同じ内容の言葉を書いていますから、お互いの違い、つまり個性を認めることの大切さは実篤が人生をかけて得た教訓のようなものだったのでしょう。
そしてそれをわかっていたからこそ、実篤と志賀の友情は、その人生が終わるまで続いたのです。
武者小路実篤の人物相関図
武者小路実篤にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「2本の杖でわかる!志賀直哉との友情」
学生時代からの友人、志賀直哉との友情は人生が終わるまで続きました。
80歳になる前に、志賀は自ら庭木で杖を2本手作りして、1本は実篤に贈りました。それは先端には滑り止めとして革を巻くという気を使ったものだったため、実篤はとても喜び、この杖を使うと志賀と一緒にいる気がすると文章にしたためました。
十分に年齢を重ねた2人でしたが、その感情はみずみずしく、まるで若者のように感じられ、傍の人々も微笑ましい気持ちになったことでしょう。2本の杖は現在、調布市の武者小路実篤記念館に大切に保管されています。
都市伝説・武勇伝2「何歳になっても挑戦する!78歳のジャンプ」
実篤の画文集が発行されたとき、最後のページには自身の写真が使われました。昭和38年、78歳の実篤が杖を持ってジャンプをしている写真です。
少し前に女子高生の間でジャンプをした瞬間の写真をSNSにあげるのが流行りましたが、あれを思い起こさせます。
うさぎ年にちなんでジャンプをした瞬間を写したと言いますが、なかなか普通の人間にできることではありません。実篤の頭の柔らかさを感じるとともに、いくつになっても何かができると、これからの人生に希望を感じる人も多いでしょう。
都市伝説・武勇伝3「孫には甘い?実篤はお茶目な人だった」
実篤の孫の知行さんは一時期実篤と暮らしていたこともあり、たくさんの思い出があるそうです。孫には優しいおじいさんだったようで、当時としては高額なお小遣いをくれたこともありました。
食生活には無頓着でグルメではなく、うなぎなどは食べなかっという意外な一面もありました。また、自分のことを昔は相撲取りだったんだ、などと孫に対して冗談を飛ばすこともあり、優しいだけでなく、愉快でお茶目な人柄だったことがわかります。
知行さんは調布市武者小路実篤記念館の理事長を務め、すでに相当の年齢のようですが、これだけ心に残っているのだから、実篤の人格の魅力は相当強かったはずです。