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楠木正成とはどんな人?生涯・年表まとめ【戦術や名言、子孫まで紹介】

あなたは「楠木正成」というとどんなイメージがありますか?恐らく、

「軍国主義の時に英雄扱いされた人だよね。」
「名前は有名だけど、よく知らないなあ。」
「戦上手といわれたらしいけど実際どんな戦いしたか良く知らないな。」

このような印象が多いのではないでしょうか。実際「大河ドラマ」や「ドキュメンタリー番組」でも戦国時代や幕末を取り上げられることが多く、有名であるにも関わらず余り知られていない武将です。

楠木正成

しかし戦前までは、最後まで南朝方に忠義を尽くした義臣であり、武士らしい最後に「日本人の美」を感じてファンが多い武将でした。

また、義理堅く忠義厚い忠臣であると同時に、鮮やかな戦術を行う武将だったことも人気の理由に挙げられるでしょう。そんな楠木正成はどんな武将なのか?熱狂的に英雄視された経緯まで、趣味人間観察の筆者が掘り下げていきたいと思います。

楠木正成とはどんな人物か

名前楠木正成
誕生日不明
没日1336年
生地大阪府南河内郡という説など
没地摂津国湊川(兵庫県神戸市)
配偶者不明
埋葬場所観心寺

楠木正成の生涯をハイライト

楠木正成の生年は謎に包まれています。いつどこで生まれたのかもはっきり分かっていません。死亡した時の年齢も分からないため、活躍し始めた時の年齢も不詳です。そんな謎多き武将の経歴は以下になります。伝説は入れておらず、正式に記録に残っているものを記しています。

楠木正成像
  • 1322年 北条高時・六波羅の命により渡辺右衛門尉・保田荘司・越智四郎討伐する
  • 不詳  後醍醐天皇の主宰の宋学研究会に所属する
  • 1331年 後醍醐天皇が討幕のために笠置山に入場。楠木正成も参加
  • 同年 元弘の乱が起こる
  • 1332年 後醍醐天皇は隠岐に流され、京では楠木正成は生きているのではないかと噂される
  • 同年  正成の動向が掴めない為に、花園上皇が六波羅に参集命令を出させる
  • 同年  潜伏から戻り再挙し、下赤坂城を攻略する
  • 1333年 河内国で井上入道を撃破
  • 同年  千早城の戦いが始まる・六波羅探題が滅亡したため千早城の戦い終結
  • 同年  後醍醐天皇建武の親政を始める。河内・摂津の国司に任じられる
  • 1335年 延元の乱が勃発。朝廷と足利尊氏が決裂し、正成は近畿に待機する
  • 1336年 朝廷軍と足利軍が京で戦う。正成は官軍となる
  • 同年  湊川の戦いで敗戦、自害する。享年は不明

楠木正成の戦歴

少ない兵力で数に勝る幕府軍を翻弄した楠木正成

楠木正成はゲリラ戦を得意とし、江戸時代は楠木流という軍法が大流行しました。応仁の乱前後から偽の正成著といわれた「軍学書」が出回っています。明治時代には伊藤博文が「雑記」という古本を持っていたり、影響は大きかったといわれています。正成の功績が分かる戦闘を、主だったもの3つを挙げてみたいと思います。

戦上手で有名となった「赤坂城の戦い」

護良親王

楠木正成が後醍醐天皇の皇子護良親王と共に、赤坂城に籠城し正規軍4軍と渡り合った戦です。赤坂城は1ヶ月で陥落しましたが、護良親王と正成は逃走し幕府方は目的を果たせませんでした。楠木正成の戦上手で有名になった戦です。

幕府軍は30万という大軍で、籠城する護良親王と楠木正成を攻めました。それに対して楠木軍は500名だったといいます。しかし少人数ながら正成は四方を幕府軍に囲まれても弓矢で応戦し、幕府軍が休憩中に「魚鱗の陣」で突撃し幕府軍を後退させています。

赤坂城の戦い

その後も幕府軍が城の塀に手をかけると手を切り落とし、上から大木や石を落として奮闘します。また塀が引き倒されそうになった時は、熱湯を上からかけて追い払ったといいます。しかし20日ほどの応戦で兵糧が付き、相談の末楠木軍は城を放棄しました。

撤退の時は城にある死体を焼いて焼死体を2,30体準備し城に置いておくことによって、幕府軍は楠木一族が自決した後だと勘違いして撤退していったといいます。以後約半年正成は消息不明になりました。

100万人に挑んだ「千早城の戦い」

千早城の戦いの図

1333年後醍醐天皇の討幕運動に(元弘の乱)呼応し、半年潜伏していた楠木正成も挙兵しました。鎌倉幕府軍と対峙し戦い、結果幕府軍は撤退し勝利しました。

幕府軍は総勢100万という数に対して、千早城の楠木軍は1000人足らずだったといいます。幕府軍は1日で攻め落とせると判断し、すぐに攻撃を仕掛けています。しかし、楠木軍は兎に角攻撃を耐え抜きました。千早城では、櫓から大石を投げ落としたり矢で応戦し、谷底に死体の山がうず高く重なったといわれています。

千早城模型図

幕府軍の被害は甚大で、死者数を確認する書記官が昼夜3日間筆を走らせ続けたといいます。楠木軍はその後も藁人形に鎧を着せて幕府軍をおびき寄せ、石を落として300人即死、500人重症という戦果をあげています。

その他にも橋を渡る幕府軍に対して、松明と油を投げて焼死させたりしました。このように正成が善戦している間に隠岐に流されていた後醍醐天皇は脱出し、他の武将も挙兵し六波羅が攻め落とされたため、幕府軍は千早城を撤退していき正成は城を守り切ったのです。

逆転に成功した「豊島河原合戦」

豊島河原合戦跡地

楠木正成を含めた朝廷軍と足利軍の戦いです。この戦いは正成の機転により勝利を収め、後醍醐天皇は京の奪回に成功しています。勝利は収めたものの、足利尊氏らの首級は取ることはできませんでした。

足利軍の兵力は「太平記」によると約16万だったといいます。対して朝廷軍は新田義貞・北畠顕家が約10万で豊島河原で挑み、当初決着が付きませんでした。しかし楠木正成が背後から挟み撃ちにしそこで形勢が逆転したため、足利尊氏は敗戦を見切り、九州に逃れていったといいます。

楠木正成最後の様子

最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くした人生だった

京から足利軍を追い出した朝廷軍ですが、段々足利軍に押されるようになります。楠木正成は九州から巻き返した足利軍と対峙し、最後は湊川の戦で生涯を閉じました。最後まで武士らしい散り際だったといいます。今から楠木正成の最後の様子を解説していきます。

楠木正成最後の日の前夜

新田義貞

建武の新政は武家の支持を得ることはできず足利軍が優勢になる中、絶望的な状況で楠木正成は兵庫へ下向しました。最後の晩に新田義貞は正成に、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を話心中を吐露したといいます。官軍の総大将に任命された重圧で世間の目を気にし、連敗を恥じていました。

最後の夜は新田義貞と酒を酌み交わしたという

それを聞いて正成は「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」と玉砕覚悟の義貞を慰めそして諫めたといいます。この義貞と酌み交わした日が正成にとって最後の夜となりました。

最後の「湊川の戦い」

湊川の戦いの布陣

楠木・新田軍は湊川を挟んで足利軍と対峙したといいます。「太平記」によると「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」といっていますが、義貞も正成もまったくひるんでいなかったといいます。この戦いで楠木正成は敗戦し、自害しました。

朝廷軍と足利軍の兵力は同数ぐらいでした。義貞は和田岬に2万5千の兵を、正成は700余騎を湊川西に布陣し足利軍を迎え撃っています。

当初は互角に戦っていましたが足利尊氏が奇襲を行い、細川水軍の突撃が決め手となり一気に足利軍が有利になったといいます。正成は義貞と分断され700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃しました。正成は奮戦し、ついには直義の近くまで届き、足利軍を須磨・上野まで退却させています。

楠木正季

しかし6時間の攻防の末、楠木軍は73騎まで数を減らし疲弊した楠木正成は、弟の正季と差し違えて自害しました。一緒に付き従っていた腹心も一緒に自害をしています。こうして楠木正成は、忠義に尽くした人生に幕を降ろしたのです。

楠木正成の評価

三徳とは儒教の書「中庸」の中で最高理念とされた

楠木正成は既に14世紀頃に書かれたといわれる「太平記」巻16の「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」で、「三徳兼備」の和朝最大の武将と評価されています。「南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない」と評価されました。

また江戸時代にも正成は賛美され、「多聞天王(軍神)の化生だ」といわれました。江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価していましたが、それでも前漢の張良、蜀漢の諸葛孔明、唐の郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであるとしつつも、日本最高の名将が楠木正成だと認めていたといいます。

楠木正成の兵糧の蓄えは特に評価された

また江戸時代の軍学書「古今軍理問答」では他の有名武将、源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置いて、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいます。内容は敵を見てその戦術を転化する変幻自在の作戦や、兵糧・用水などの確保を重要視したこと、千早城という籠城に適した築城技術などを評価されたのです。

楠木正成生誕の謎

軍神の生まれ変わりといわれた男は謎だらけだ

これほど有名な武将でありながら、楠木正成の出自は謎に包まれています。自身は橘氏の末裔を称していましたが、正確にはわかりません。いくつかの説があり、色々な楠木正成像が見えてくる内容です。

河内の土豪説

楠木公生誕の地

「太平記」によると、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたと記されています。正成を橘氏の末裔とし、母は橘遠安の末裔橘盛仲の娘としています。ただし当時は源平藤橘の名字が必要なので、橘を名乗ったのではないかという説もあります。

「太平記」の中にも楠木正成は橘諸兄の末裔であると書かれ、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれていました。楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったといれています。この説が一般的に一番有力とされている説です。

駿河国出身説

楠木正成が幼少期に仏学を学んだ観心寺

駿河国出身である説も支持者が一定数いる説です。根拠は以下の通りです。

  • 楠木正成の地元である河内国に「楠木」という字がない。
  • 1293年に駿河の鶴岡八幡宮に楠木村を寄進したという記録が残っており、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できるため
  • 観心寺荘の地頭だった安達氏を、鎌倉幕府の有力御家人長崎氏が滅ぼし、その土地を長崎氏と同郷の楠木氏が任されたのではないかと考えられること

などが挙げられています。今でも静岡市清水区には長崎・楠木という地名が沢山残っているといいます。楠木氏はもともと武蔵国御家人で、河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定されています。正成は河内国の観心寺で仏学を学んでいます。

悪党説

父の代から強さを認められていた可能性も

楠河内入道という、請負代官でありながら年貢を送らず罷免された一味がおり、それが正成の父ではないかという説です。要は正成の出自は悪党的(命令に従わないもの)な荘官武士ではないかという説になります。

この説では、河内楠木氏が散所民の長的存在だと提唱されています。楠木正成のゲリラ戦法も、悪党的戦法であるのも根拠の一つになっています。ただしこの時代の「悪」の概念は、ごろつき・ならず者といったイメージではなく、命令に従わない不良なイメージは多少あるものの、強い者に対して使う言葉でした。

尊王の「忠臣」として死後、再評価される

江戸時代の水戸学の尊王において、楠木正成は見直されました。江戸時代に国家労働者でして神として祭祀しようと提言され、尾張藩の徳川慶勝が「楠公社」の建立を朝廷に進言しています。

楠木正成の刀と伝わるものを明治天皇は携えていたという

明治になると「南北朝正閏論」において南朝が正当であるとされると、「大楠公」といわれるようになりました。皇国史観の元で、戦死を覚悟で大義のために戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられて、修身教育でも祀られていくようになりました。明治天皇は正成の佩刀と伝わる刀を常に携えていたといわれています。

楠木正成に子孫はいるのか?

アラビア石油創設者山下太郎も楠木正成の子孫

楠木正成の子孫達は、昭和時代に楠公精神を伝えるために「楠木同族会」が設立されています。現在でも湊川神社管理や支援を行っているそうです。著名な楠木正成の子孫に、「山下太郎」がおり、アラビア石油社長に就任しています。

楠木正成に影響を与えた人物は?

楠木正成が忠義を尽くして戦い抜いた南北朝の戦いにおいて、正成がどのような人物だったかを「人物との関わり」で知ることができます。現在の「大楠公」の評価に影響を与えた2人の人物とのエピソードを紹介します。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

南朝の創始者であり、楠木正成公が忠臣を貫いた天皇です。時代に沿わない「天武の新政」を行ったことから「暗愚で不徳な君」であるが正当性があるため、従わないといけなかった「忠臣」の悲劇がより楠木正成の人気に繋がったといわれています。

逸話として楠木正成は後醍醐天皇に、「新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだ」と天皇に奏上したという話があります。足利尊氏が九州に逃れるときに多くの軍勢が尊氏に付き従っていた姿を見ていたからだといいます。尊氏には徳があり、義貞は人望・徳がないと提言したのです。この策は公家達の失笑を買い、後醍醐天皇に退けられましたが優れた正成の先見性を表すエピソードといわれています。

足利尊氏

足利尊氏

鎌倉幕府の御家人であり、倒幕に多大な貢献をした人物でした。しかし武家に恩賞をあげたりしたため、後醍醐天皇に独自の武家政権を樹立するつもりだと勘違いされ関係が悪化していきます。結果的に朝廷軍と戦い、楠木正成とも何度も戦をしています。

足利尊氏は、楠木正成の武勇と人徳を評価していたといいます。正成が討ち死にしたとき戦死した正成の首を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還したといわれており、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたと分かるエピソードが残っています。

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