楠木正成の評価
楠木正成は既に14世紀頃に書かれたといわれる「太平記」巻16の「楠木正成兄弟以下湊川にて自害の事」で、「三徳兼備」の和朝最大の武将と評価されています。「南北朝分裂以降、仁が無い者は北朝に寝返り、勇が無い者は死を恐れてかえって死罪に合い、智が無い者は時流の変遷を理解できず道理のない振る舞いばかりしていたが、そのような中、ただ一人楠木正成のみが智・仁・勇の三徳を兼ね備え、古今これほど偉大な死に様をした者はいない」と評価されました。
また江戸時代にも正成は賛美され、「多聞天王(軍神)の化生だ」といわれました。江戸初期の儒学者は中国の人物を高く評価していましたが、それでも前漢の張良、蜀漢の諸葛孔明、唐の郭子儀を三徳に近い中国史の名将とし、日本の楠木正成は孔明の次ぐらいであるとしつつも、日本最高の名将が楠木正成だと認めていたといいます。
また江戸時代の軍学書「古今軍理問答」では他の有名武将、源義朝・源義経・武田信玄・上杉謙信などを差し置いて、正成を「日本開闢以来の名将」の異名で呼んでいます。内容は敵を見てその戦術を転化する変幻自在の作戦や、兵糧・用水などの確保を重要視したこと、千早城という籠城に適した築城技術などを評価されたのです。
楠木正成生誕の謎
これほど有名な武将でありながら、楠木正成の出自は謎に包まれています。自身は橘氏の末裔を称していましたが、正確にはわかりません。いくつかの説があり、色々な楠木正成像が見えてくる内容です。
河内の土豪説
「太平記」によると、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたと記されています。正成を橘氏の末裔とし、母は橘遠安の末裔橘盛仲の娘としています。ただし当時は源平藤橘の名字が必要なので、橘を名乗ったのではないかという説もあります。
「太平記」の中にも楠木正成は橘諸兄の末裔であると書かれ、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれていました。楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったといれています。この説が一般的に一番有力とされている説です。
駿河国出身説
駿河国出身である説も支持者が一定数いる説です。根拠は以下の通りです。
- 楠木正成の地元である河内国に「楠木」という字がない。
- 1293年に駿河の鶴岡八幡宮に楠木村を寄進したという記録が残っており、楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できるため
- 観心寺荘の地頭だった安達氏を、鎌倉幕府の有力御家人長崎氏が滅ぼし、その土地を長崎氏と同郷の楠木氏が任されたのではないかと考えられること
などが挙げられています。今でも静岡市清水区には長崎・楠木という地名が沢山残っているといいます。楠木氏はもともと武蔵国御家人で、河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定されています。正成は河内国の観心寺で仏学を学んでいます。
悪党説
楠河内入道という、請負代官でありながら年貢を送らず罷免された一味がおり、それが正成の父ではないかという説です。要は正成の出自は悪党的(命令に従わないもの)な荘官武士ではないかという説になります。
この説では、河内楠木氏が散所民の長的存在だと提唱されています。楠木正成のゲリラ戦法も、悪党的戦法であるのも根拠の一つになっています。ただしこの時代の「悪」の概念は、ごろつき・ならず者といったイメージではなく、命令に従わない不良なイメージは多少あるものの、強い者に対して使う言葉でした。
尊王の「忠臣」として死後、再評価される
江戸時代の水戸学の尊王において、楠木正成は見直されました。江戸時代に国家労働者でして神として祭祀しようと提言され、尾張藩の徳川慶勝が「楠公社」の建立を朝廷に進言しています。
明治になると「南北朝正閏論」において南朝が正当であるとされると、「大楠公」といわれるようになりました。皇国史観の元で、戦死を覚悟で大義のために戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられて、修身教育でも祀られていくようになりました。明治天皇は正成の佩刀と伝わる刀を常に携えていたといわれています。
楠木正成に子孫はいるのか?
楠木正成の子孫達は、昭和時代に楠公精神を伝えるために「楠木同族会」が設立されています。現在でも湊川神社管理や支援を行っているそうです。著名な楠木正成の子孫に、「山下太郎」がおり、アラビア石油社長に就任しています。
楠木正成に影響を与えた人物は?
楠木正成が忠義を尽くして戦い抜いた南北朝の戦いにおいて、正成がどのような人物だったかを「人物との関わり」で知ることができます。現在の「大楠公」の評価に影響を与えた2人の人物とのエピソードを紹介します。
後醍醐天皇
南朝の創始者であり、楠木正成公が忠臣を貫いた天皇です。時代に沿わない「天武の新政」を行ったことから「暗愚で不徳な君」であるが正当性があるため、従わないといけなかった「忠臣」の悲劇がより楠木正成の人気に繋がったといわれています。
逸話として楠木正成は後醍醐天皇に、「新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだ」と天皇に奏上したという話があります。足利尊氏が九州に逃れるときに多くの軍勢が尊氏に付き従っていた姿を見ていたからだといいます。尊氏には徳があり、義貞は人望・徳がないと提言したのです。この策は公家達の失笑を買い、後醍醐天皇に退けられましたが優れた正成の先見性を表すエピソードといわれています。
足利尊氏
鎌倉幕府の御家人であり、倒幕に多大な貢献をした人物でした。しかし武家に恩賞をあげたりしたため、後醍醐天皇に独自の武家政権を樹立するつもりだと勘違いされ関係が悪化していきます。結果的に朝廷軍と戦い、楠木正成とも何度も戦をしています。
足利尊氏は、楠木正成の武勇と人徳を評価していたといいます。正成が討ち死にしたとき戦死した正成の首を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還したといわれており、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたと分かるエピソードが残っています。
凄く分かりやすかった