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ニューディール政策とは?内容や成果を分かりやすく簡単に解説

ニューディール政策は全世界を大不況に巻き込んだ世界恐慌の打開策として有名な政策です。小学校から歴史の授業では出てくるものの、具体的にどんなことをし、結果としてどうだったのかはあまり具体的に触れられていません。

よく触れられているのは公共事業の拡大ですが、それ以外にもさまざまな政策が打ち出され、実行に移されていました。クローズアップされる公共事業はもちろんのこと、金融政策や農業政策など、実施された内容は思いのほか多岐にわたっています。

実は2度行われたこの政策、一体どんな目的があり、どんな政策が実行されたのでしょうか。そして、気になる成果はどうだったのでしょうか。

今回はニューディール政策が実施された背景とその理由、具体的な政策の中身と、今も議論が続く成功・失敗の理由についてお話します。どうぞ最後までお付き合いください。

ニューディール政策とは?分かりやすく簡単に解説

ニューディール政策とは、教科書では「新規巻き直し政策」と訳されています。しかし、巻き直しと言われてもイマイチピンとこないのではないでしょうか。そもそも何から巻き直したのかがわかりませんよね?

ニューディール政策を実行したフランクリン・ルーズベルト

世界恐慌のさなか、1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが公約として掲げ、就任後に即実行した政策を総称してニューディール政策と呼んでいます。つまり、ニューディール政策とは、1つの政策のことではなく、複数の政策をまとめてこう呼ぶのです。

実はこの政策の総称である「ニューディール」とは、1889年に出版された小説『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(原題:A Connecticut Yankee in King Arthur’s Court )で主人公である「モーガン」が実施した政策から取られています。後につけられた俗称ということになりますね。

『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』の原書

具体的な内容は後で触れますが、ニューディール政策の目的は以下の3点に絞られます。

  • 失業者の救済
  • 銀行の救済
  • 労働者への支援と各種産業の改善

政府がこれらのことに直接介入することは、当時極めて異例な措置でした。しかし、悪化するアメリカ経済を見過ごすことはできなかったルーズベルトは大統領選挙で公約として国民に約束したのです。

これがニューディール政策になります。

ニューディール政策がはじまった理由と背景

ニューディール政策がはじまった理由は、世界恐慌の影響で失業者が激増したことがそのもっとも大きな理由です。

1929年、ニューヨークのウォール街にある証券取引所で、当時の最有力株であったゼネラルモーターズの株価が大暴落。それに煽りを受けた他の産業の株価も暴落し、未曾有の不景気に見舞われたことが世界恐慌の発端です。その後、アメリカ経済に依存していたヨーロッパを中心にこの不況は伝播。結果として一部の国と地域を除いた全世界が経済不況に陥りました。

現場をうったえるプラカードを背中に掲げた求職者

アメリカは当初、世界恐慌は自然に収束すると楽観視していました。しかしその兆しは現れることなく、当時のフーバー大統領は任期満了により退任します。この後選ばれたのが、ニューディール政策を打ち出し、アメリカ経済の回復を目指したルーズベルトとなります。国民の間でも景気回復を熱望する声も多かったため、自然とルーズベルトは選ばれていったのでしょう。

世界恐慌発生時の大統領、ハーバード・フーバー

世界恐慌を深刻に受け止めなかったフーバーに変わり、ルーズベルトは大統領就任後に公約で掲げたこれらの約束を実行したのです。

ニューディール政策の中身

学校の教科書では具体的な政策内容について触れられることの少ないニューディール政策。その理由は政策が2回に分けられていたことと、その政策のボリュームの多さです。第1次、第2次ともに趣旨が大きく異ならないため、教科書ではまとめられてしまっています。

本章では、第1次と第2次のニューディール政策を、実施された内容ごとに詳しく説明していきます。

第1次ニューディール政策

第1次ニューディール政策が実施された期間は1933年からになります。就任からわずか100日で整備を進めたルーズベルトは、日曜日も返上して各種政策を政府主導で実施しました。その主な内容は6つ。

  • 緊急銀行救済法
  • テネシー川流域開発公社発足
  • 市民保全部隊の組織
  • 全国産業復興法の制定
  • 農業調整法の制定
  • 労働者を徹底的に守るための政策

これらのうち特に注目されるのはテネシー川流域開発公社の発足です。しかし、これら以外にも注目すべき内容は数多く、失業者が世界的に増えたコロナウイルスによる不況で「同様の政策はできないか」という期待感が高まったのは事実です。

演説ではラジオを多用していたルーズベルト

それでは1つずつ詳しく見ていきます。

緊急銀行救済法

世界恐慌の発端となった証券パニックで経営が悪化した銀行を、政府主導で回復させようとしたのが緊急銀行救済法です。恐慌が起きた当時、銀行には「倒産する」という噂から預金を引き出そうとする顧客が行列をなし、それを風刺したイラストが新聞に掲載されるほどになっていました。

預金を引き出そうとする市民

ルーズベルトは就任翌日から全米の銀行を休業にするよう命令。その間に銀行の内情を調査しました。特に経営状態が悪い銀行には政府が直接介入し、経営改善に尽力。同時に行われた大規模な金融緩和と、預金を守るための組織である預金保険公社の設立により、預金の取り付け騒ぎは収束したのです。

また、この政策によって誕生した緊急連邦救済局は、多額の公共事業への投資も実施。1935年から始まる第2次ニューディール政策の要である公共事業促進局と社会保障局に受け継がれる形で消滅するまで、第1次ニューディール政策の中心となる組織として存在しました。

テネシー川流域開発公社発足

ニューディール政策を語る上で外せないのが、公共事業による雇用の創出です。特にテネシー川流域開発公社の設立が代名詞的な公共事業だということは言うまでもありません。

ルーズベルト就任当時、アメリカの失業率は25%、つまりアメリカ人労働人口の4人に1人が失業者という状態であり、人数は1200万人とも言われています。求職者が増えた時期でしたが、どの会社も不況でとても新しく人員を雇う余裕はなく、人々は失業状態から抜け出すことができませんでした。

テネシー川のダムのひとつで、現在も稼働している

そこでルーズベルトが目をつけたのがテネシー川の開発です。以前から整備の話はあったものの、川の深さが深く、整備しようにも進まなかったのがその理由とされています。

ルーズベルトはこのテネシー川を整備する事業を、テネシー川流域開発公社という公営企業を作ることで実行に移します。30箇所に及ぶダムの建設と水運、水力発電、そして治水事業とを国の事業として実施し、それに関わる労働者を募集したのです。

結果的に効果は一時的であったものの失業者数の増加はストップ。一連の工事により流域の整備が進んだことで、失業者数の抑止と治水事業の2つの観点から一定の成果を収めた事業となりました。

市民保全部隊の組織

市民保全部隊の活動風景

18歳から25歳前後の、主に現代日本でいうところの新卒を対象にした職業訓練を実施する組織、市民保全部隊の創設も第1次ニューディール政策の1つに数えられます。学校を卒業したての新卒も就職の口はありませんでした。また、若年層での失業率も高かったことを受けてルーズベルトが解決に向けて取り組んだ政策になります。

参加条件はアメリカ市民権を持つ独身青年であり、人種の制限は当時としては珍しくありませんでした。そのため参加者全体の約10%が黒人であったとする記録も残っています。厳密にいうと市民保全部隊は職業訓練のためのキャンプであり、それによって得られた労働力は公共事業へと回されました。

市民保全部隊の活動を後世に伝える記念碑

主には国立公園の環境整備や道路建設、森林伐採や植林活動といったインフラ整備・環境保全活動が中心。もらえる給料のうちのいくらかは保護者に送られるため、保護者層からの評判はよかったと言われています。しかし、参加していた青年たちは、集団生活や僻地での労働が不満だったようです。

その一方で、社会的な貢献もしています。例えば国立公園の整備水準を大幅に上げたことが挙げられます。また、市民保全部隊の活動を通じ、盲人の教育約10万人分に成功したとも言われているのです。ピーク時の参加人数が全米で50万人とも言われています。

市民保全部隊はその後、1940年ごろに軍隊に編入される形で消滅しました。

全国産業復興法の制定

労働者の保護と購買意欲の回復を目的に1933年に制定されたのが全国産業復興法です。制定された当初、この法律は画期的なものとして注目されました。

全国産業復興法を記念した3セント切手

その理由は、まず最低賃金の保証にあります。当時はアメリカのみならず世界中で労働に対する賃金は各企業が独自に決定していました。そのため異常に低い賃金で働かされていたりすることもしばしばあったようです。世界恐慌の発生後は企業の支払う賃金も低下傾向にあり、労働者は薄給での労働を強いられていました。また長時間労働も問題となり、これらの抜本的の改革が必要との判断を迫られていました。

ルーズベルトはこれらの問題に対処するため、最低賃金と1週間あたりの労働時間を40時間以内にするなどのルールを法律として制定。それまで各企業に任せていた労働関係に関するルールを政府が介入する、いわゆる修正資本主義の形を取ったのです。

アメリカの連邦裁判所

一見すると素晴らしい法律として受け入れられたかのように見えますが、全国産業復興法は1935年に違憲判決を受け廃止となりました。しかし最低賃金や就労時間、団体交渉権などの労働者の権利を認めたものだけを集め、1935年に全国労働関係法(ワグナー法)として残す形を取ったのでした。

農業調整法の制定

全国産業復興法と同じく、違憲判決を受けたものの、農業を守るために制定されたものに農業調整法があります。1933年に制定されたこの法律もまた、1935年に修正されて第2次農業調整法として再出発しました。

世界恐慌のあおりを受けて野宿する市民

アメリカにおける農業に関する問題は第一次世界大戦後から問題になっており、生産量は年々減少。農家の収入は減っていたさなかでの世界恐慌で、さらに輪をかけて農家の生活は苦しいものになっていました。

農業調整法では、農産物の価格安定のために過剰生産分を政府が買い上げ。市場価格が著しく下落するのを抑えこもうとしました。また、そもそもの生産量を減らしても収入が減らないようにするため、減らした生産量の分を補助金として生産農家に給付。土地の買い上げなども実施し、農産物生産に関わる労働者を保護しようとしました。

しかしそのやり方は、社会主義の計画生産を連想させるもので一部の農家からは以下のように揶揄されました。

ソヴィエトに存在するいかなる法律や規則よりもヴォリシェヴィキ的だ。〈林敏彦『大恐慌とアメリカ』より〉

結果としてこちらも違憲判決を受け、廃止となりました。

日本で実施された農地改革指令を報道する新聞

この法律は第2次農業調整法として形を一部変えて残り、また、戦後日本の占領政策の1つである農地改革のベースとして採用されました。日本の戦後改革にも深く関係する法律と言えます。

労働者を徹底して守る

全国産業復興法の廃止を受けてもルーズベルトが守り通したものが労働者の保護でした。そこで意見に当たる部分を除き、そうして世に出たのが全国労働関係法です。

ルーズベルトはこれ以上の失業者を増やさないこと、労働者の生活を政府として守ることに注力していました。そのためそれまで企業に任せていた労働時間や賃金、資本家(経営者)と労働者の関係を対等にすることに躍起になったのです。

労働者の雇用と賃金を保証することで市場にお金が回るようになり、不況から脱出できる。そのためには労働に見合った賃金を保証し、労働者の権利を認め、そして守る必要があるとルーズベルトは考えたのです。

労働に従事するアメリカ市民

もちろんこれら以外にも不当解雇の禁止や団体交渉権の保証、差別待遇の禁止を規定。資本家側は特に団体交渉権について違憲だと言う声を上げたものの1937年に連邦裁判所から合憲判決を下され、労働組合運動が加熱しました。

全国労働関係法は、一部形を変えてはいますが現行法としてその効力を今も発揮しています。また、農業調整法と同じく、こちらも第二次世界大戦後の日本の占領政策でも採用されました。

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