ニューディール政策とは?内容や成果を分かりやすく簡単に解説

緊急銀行救済法

世界恐慌の発端となった証券パニックで経営が悪化した銀行を、政府主導で回復させようとしたのが緊急銀行救済法です。恐慌が起きた当時、銀行には「倒産する」という噂から預金を引き出そうとする顧客が行列をなし、それを風刺したイラストが新聞に掲載されるほどになっていました。

預金を引き出そうとする市民

ルーズベルトは就任翌日から全米の銀行を休業にするよう命令。その間に銀行の内情を調査しました。特に経営状態が悪い銀行には政府が直接介入し、経営改善に尽力。同時に行われた大規模な金融緩和と、預金を守るための組織である預金保険公社の設立により、預金の取り付け騒ぎは収束したのです。

また、この政策によって誕生した緊急連邦救済局は、多額の公共事業への投資も実施。1935年から始まる第2次ニューディール政策の要である公共事業促進局と社会保障局に受け継がれる形で消滅するまで、第1次ニューディール政策の中心となる組織として存在しました。

テネシー川流域開発公社発足

ニューディール政策を語る上で外せないのが、公共事業による雇用の創出です。特にテネシー川流域開発公社の設立が代名詞的な公共事業だということは言うまでもありません。

ルーズベルト就任当時、アメリカの失業率は25%、つまりアメリカ人労働人口の4人に1人が失業者という状態であり、人数は1200万人とも言われています。求職者が増えた時期でしたが、どの会社も不況でとても新しく人員を雇う余裕はなく、人々は失業状態から抜け出すことができませんでした。

テネシー川のダムのひとつで、現在も稼働している

そこでルーズベルトが目をつけたのがテネシー川の開発です。以前から整備の話はあったものの、川の深さが深く、整備しようにも進まなかったのがその理由とされています。

ルーズベルトはこのテネシー川を整備する事業を、テネシー川流域開発公社という公営企業を作ることで実行に移します。30箇所に及ぶダムの建設と水運、水力発電、そして治水事業とを国の事業として実施し、それに関わる労働者を募集したのです。

結果的に効果は一時的であったものの失業者数の増加はストップ。一連の工事により流域の整備が進んだことで、失業者数の抑止と治水事業の2つの観点から一定の成果を収めた事業となりました。

市民保全部隊の組織

市民保全部隊の活動風景

18歳から25歳前後の、主に現代日本でいうところの新卒を対象にした職業訓練を実施する組織、市民保全部隊の創設も第1次ニューディール政策の1つに数えられます。学校を卒業したての新卒も就職の口はありませんでした。また、若年層での失業率も高かったことを受けてルーズベルトが解決に向けて取り組んだ政策になります。

参加条件はアメリカ市民権を持つ独身青年であり、人種の制限は当時としては珍しくありませんでした。そのため参加者全体の約10%が黒人であったとする記録も残っています。厳密にいうと市民保全部隊は職業訓練のためのキャンプであり、それによって得られた労働力は公共事業へと回されました。

市民保全部隊の活動を後世に伝える記念碑

主には国立公園の環境整備や道路建設、森林伐採や植林活動といったインフラ整備・環境保全活動が中心。もらえる給料のうちのいくらかは保護者に送られるため、保護者層からの評判はよかったと言われています。しかし、参加していた青年たちは、集団生活や僻地での労働が不満だったようです。

その一方で、社会的な貢献もしています。例えば国立公園の整備水準を大幅に上げたことが挙げられます。また、市民保全部隊の活動を通じ、盲人の教育約10万人分に成功したとも言われているのです。ピーク時の参加人数が全米で50万人とも言われています。

市民保全部隊はその後、1940年ごろに軍隊に編入される形で消滅しました。

全国産業復興法の制定

労働者の保護と購買意欲の回復を目的に1933年に制定されたのが全国産業復興法です。制定された当初、この法律は画期的なものとして注目されました。

全国産業復興法を記念した3セント切手

その理由は、まず最低賃金の保証にあります。当時はアメリカのみならず世界中で労働に対する賃金は各企業が独自に決定していました。そのため異常に低い賃金で働かされていたりすることもしばしばあったようです。世界恐慌の発生後は企業の支払う賃金も低下傾向にあり、労働者は薄給での労働を強いられていました。また長時間労働も問題となり、これらの抜本的の改革が必要との判断を迫られていました。

ルーズベルトはこれらの問題に対処するため、最低賃金と1週間あたりの労働時間を40時間以内にするなどのルールを法律として制定。それまで各企業に任せていた労働関係に関するルールを政府が介入する、いわゆる修正資本主義の形を取ったのです。

アメリカの連邦裁判所

一見すると素晴らしい法律として受け入れられたかのように見えますが、全国産業復興法は1935年に違憲判決を受け廃止となりました。しかし最低賃金や就労時間、団体交渉権などの労働者の権利を認めたものだけを集め、1935年に全国労働関係法(ワグナー法)として残す形を取ったのでした。

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