ニューディール政策とは?内容や成果を分かりやすく簡単に解説

農業調整法の制定

全国産業復興法と同じく、違憲判決を受けたものの、農業を守るために制定されたものに農業調整法があります。1933年に制定されたこの法律もまた、1935年に修正されて第2次農業調整法として再出発しました。

世界恐慌のあおりを受けて野宿する市民

アメリカにおける農業に関する問題は第一次世界大戦後から問題になっており、生産量は年々減少。農家の収入は減っていたさなかでの世界恐慌で、さらに輪をかけて農家の生活は苦しいものになっていました。

農業調整法では、農産物の価格安定のために過剰生産分を政府が買い上げ。市場価格が著しく下落するのを抑えこもうとしました。また、そもそもの生産量を減らしても収入が減らないようにするため、減らした生産量の分を補助金として生産農家に給付。土地の買い上げなども実施し、農産物生産に関わる労働者を保護しようとしました。

しかしそのやり方は、社会主義の計画生産を連想させるもので一部の農家からは以下のように揶揄されました。

ソヴィエトに存在するいかなる法律や規則よりもヴォリシェヴィキ的だ。〈林敏彦『大恐慌とアメリカ』より〉

結果としてこちらも違憲判決を受け、廃止となりました。

日本で実施された農地改革指令を報道する新聞

この法律は第2次農業調整法として形を一部変えて残り、また、戦後日本の占領政策の1つである農地改革のベースとして採用されました。日本の戦後改革にも深く関係する法律と言えます。

労働者を徹底して守る

全国産業復興法の廃止を受けてもルーズベルトが守り通したものが労働者の保護でした。そこで意見に当たる部分を除き、そうして世に出たのが全国労働関係法です。

ルーズベルトはこれ以上の失業者を増やさないこと、労働者の生活を政府として守ることに注力していました。そのためそれまで企業に任せていた労働時間や賃金、資本家(経営者)と労働者の関係を対等にすることに躍起になったのです。

労働者の雇用と賃金を保証することで市場にお金が回るようになり、不況から脱出できる。そのためには労働に見合った賃金を保証し、労働者の権利を認め、そして守る必要があるとルーズベルトは考えたのです。

労働に従事するアメリカ市民

もちろんこれら以外にも不当解雇の禁止や団体交渉権の保証、差別待遇の禁止を規定。資本家側は特に団体交渉権について違憲だと言う声を上げたものの1937年に連邦裁判所から合憲判決を下され、労働組合運動が加熱しました。

全国労働関係法は、一部形を変えてはいますが現行法としてその効力を今も発揮しています。また、農業調整法と同じく、こちらも第二次世界大戦後の日本の占領政策でも採用されました。

第2次ニューディール政策

改革を断行したルーズベルトは身体障がい者で、普段は車椅子に乗っていた

矢継ぎ早に行われた第1次ニューディール政策によって出てきた不満を解消するために実施されたのが第2次ニューディール政策です。

先に行われた第1次ニューディール政策は主に雇用の保障と経済・金融政策の安定を図る法案がメインとなっていました。しかし、富裕層との貧富の格差是正や社会保障という面では脆弱で、議会でも右派・左派を問わず不満の声が上がっていました。

また、市民からもこれらの改善を求める声が複数出ていることに直面したルーズベルトは、第1次ニューディール政策から方針転換を迫られることとなりました。

ここからは1935年以降、戦争に突入するまでの第2次ニューディール政策について迫っていきます。なお、先にお話した全国労働関係法、第2次農業調整法に関してはすでに説明しているため割愛します。

労働者の保障から失業者の雇用へ

雇用促進局のポスターのうちの1枚

第1次ニューディール政策と大きく変わった点として、労働者の各種保障の充実から、失業者への雇用への方針転換があります。その理由として、第1次ニューディール政策で違憲判決を下された全国産業復興法の代替案がきっかけになっています。

ルーズベルトは、失業者をないがしろにしていたわけではありませんでした。むしろ、テネシー川流域開発公社や市民保全部隊の創設で、積極的に失業者の雇用を促してきました。しかし、それだけでは十分な雇用創出につながらず、市民からは不満の声も上がっていました。

雇用促進局のあっせんで就労する市民

雇用創出のため、ルーズベルトは新たな公社として雇用促進局を設立します。公共事業促進局とも呼ばれるこの公社は、その名の通り失業者の新たな雇用創出のために開設されたものでした。従来のダム建設のみならず、インフラ整備や空港や高速道路といった公共事業にも従事させる目的で、延べ850万人の雇用を創出しました。

もちろんブルーカラーと呼ばれる肉体労働者の支援だけではありませんでした。予算は全体の10%ほどでしたが、作家や研究者、芸術活動をするホワイトカラーにもその手は差し伸べられたのです。

雇用促進局は1943年、第二次世界大戦の軍需産業の拡大に伴う失業者の激減を受けて解消されました。

貿易方針の変更

第2次ニューディール政策は対外関係、とりわけ貿易に色濃く影響を与えました。

政策前の各国のブロック経済事情

それまでアメリカの利益を追求し実施されていた保護貿易から、ルーズベルトは自由貿易への転換を議会の承認をもって決定されます。これにより、世界恐慌の対策として行われてきたブロック経済のうち、米ドル・ブロックが事実上終了。他国からの輸入に関しても関税を設けずに国内にものが入ってくるようになったのです。

しかしすべての税がなくなったわけではなく、大統領権限による税率変更がなされました。自国の産業を守りつつ、海外から入ってくる物品を国内に流通させることで、市民の購買意欲を促進しようとしたのです。

では、どのようにして税率が決定されたのでしょうか。当時は輸入する側、輸出する側で結ばれた条約によりその権限の持ち主は違いました。日本史で言うところの関税自主権の問題です。

保護貿易と自由貿易の図解

ルーズベルトはこれを撤廃し、互恵通商協定を貿易相手と結ぶことを決定します。互恵通商協定とは関税をはじめとする貿易に関わる税率を輸出する側と輸入する側の交渉によって決定するものです。これにより対等な貿易を実現することができ、両国間の利益・不利益をできるだけなくすことができるようになりました。

結果としてアメリカ国内の産業を守りつつ、海外からの輸入による比較的安価なものがアメリカ市場に出回ったことで購買意欲はやや上昇傾向に転じました。

1 2 3 4

コメントを残す