ヒッタイトとはなに?歴史や文化、神話まとめ【地図付きで分かりやすく紹介】

ヒッタイトの文化

鉄を発展させた民族

鉄を発展させ、技術を独占した

ヒッタイト人は世界で初めて鉄を有効に利用した民族です。製鉄技術を最初に発展させ、独占することで強大な軍事力を持ちました。ですが、なぜヒッタイト人はそれほどまでに優れた製鉄技術を持つに至ったのでしょうか。

実は、ヒッタイトがアナトリアに進出する前からその地ではハッティ人が鉄で道具を作っていました。しかし、ハッティ人が作る鉄は脆く、道具には向かない強度でした。

しかしヒッタイト人がアナトリアへ進出し、ハッティ人の製鉄技術や文化を吸収すると一気に技術が進歩します。

ヒッタイト人は製鉄の際、炭を使うと鉄がより加工のしやすい「鋼」になることを発見しました。鉄と炭から作られた鋼は硬く、しかもある程度の柔軟性を持っています。道具にするには持ってこいの鉱物でした。

ヒッタイト人はこの鋼を加工し、鉄器や武器を作って強くなったのです。ヒッタイト人は鉄をそのまま利用するのではなく、鋼へと加工できたからこそ力を持てました。

優れた製鉄技術は、ヒッタイト滅亡後世界に広まります。世界各地で取れる鉄は各国の軍事力や農業を発展させ、大国ができる土壌を作りました。

車や自転車に使われているスポーク付き車輪を開発した

ヒッタイト軍の戦車

ヒッタイトが他国に対して優位だったのは、製鉄技術だけではありません。実は頑丈な戦車を持っていたことも、ヒッタイトを軍事面で有利にしました。

当時、エジプトやメソポタミアでも戦車を使っていました。しかし、車輪の強度を支えるスポークが木でできた木製のものであったり、そもそも車軸がなかったりする戦車でした。

ヒッタイトはスポーク(車軸)を開発した民族です。しかし、スポークだけなら、すぐに真似ができてしまうため戦争を優勢にする要素にはならなかったかもしれません。ヒッタイトはさらに、このスポークをより頑丈なものへ改良しました。

ヒッタイトは重要な部品である車輪とスポークを鉄で作り、頑丈な戦車を作ったのです。ヒッタイトの戦車は小型の馬に引かせる大型タイプのもので防御重視でした。

壊れにくい戦車はヒッタイトの大きな力となり、他国に対する軍事的優位を確保しました。

もしヒッタイト人がスポーク付きの車輪を開発しなかったら、わたしたちが日常的に乗っている車や自転車はなかったかもしれませんね。

ヒッタイト人の服装

ヒッタイト人の服装は、メソポタミア文明とほぼ同じです。

亜麻製の腰布をまき、短めの上着をきていました。女性は長いスカートを履き、体の線を強調しない服装をしていました。

ヒッタイトは周辺の国から文化を吸収していたため、服装は周囲の文明とほとんど変わらなかったようです。

ヒッタイトの神話

ヒッタイトは旧約聖書では「ヘテ人」として登場し、約束の地カナンの原住民として知られている

ヒッタイト人は、原住民のハッティ人や近辺のアッシリア人、フリ人の神々などそれぞれの民族の宗教を受け入れて崇拝しました。

そのため、ヒッタイトには主に2つの神話があります。

1つ目が死と再生をテーマにした「テリピヌ伝説」です。内容は、以下の通りです。

豊穣神のテリピヌがなんらかの理由で怒って姿を消してしまい、人や家畜は子を産まなくなり、植物は枯れてしまいます。そのため、神も人も飢えに苦しむようになってしまい、見かねた太陽神が1000の神々を集め、テリピヌを探します。

しかし、なかなか見つけることができません。そこで最後にミツバチを差し向けたところ、ようやくテリピヌが見つかりました。テリピヌの怒りを鎮める儀式を繰り返し行うと、ついにテリピヌが姿を現し、再び生命の営みが戻り、餓えはなくなったという話です。

2つ目が「クマルビ神話」です。こちらはメソポタミアの神を取り入れ、それらの神話を体系化して神々がどのように発生したかを記した書です。

内容は以下の通りです。

最初の天界の主人はアラルでしたが、アヌにとって代わられます。しかしそのアヌはクマルビに追われます。その時に、アヌの精液を飲み込んだクマルビから生まれたのが、ヒッタイトで重視されている天候神です。天候神は父と戦い、勝利を収める、という内容です。

ヒッタイトの遺跡

ハットゥシャ遺跡

ハットゥシャ遺跡

ハットゥシャ遺跡は、トルコの首都アンカラの東200kmの地点にある遺跡です。ヒッタイト人の首都があった場所で、1986年に世界文化遺産に登録されました。

ヒッタイトは外敵が多かったため、都の周りは長大な城壁で囲まれていました。その中に神殿や住居、学校、食料貯蔵庫、王城が存在していました。

この遺跡の見所はたくさんあり、紹介しきれないほどです。

まず、ラムセス2世からの贈り物と思われるグリーンストーン。この石はパワーストーンとして有名で、別名「願い石」とも呼ばれています。

次にヒッタイト王国時代、ハットゥシャの出入り口だった3つの門もそれぞれ特徴的で見応えがあります。遺跡の西にある獅子門には、2頭のライオン像があり、都の中に悪霊が入るのを防いでいたと言われています。

また、70mにも及ぶ地下通路や大要塞、最後の王について記された8.5mにも及ぶ碑文など、古代を生きたヒッタイトの文化や歴史を感じられます。

ヤズルカヤ遺跡

ヤズルカヤ遺跡のレリーフ

ヤズルカヤ遺跡は、ハットゥシャ遺跡の東3kmに位置しています。ヤズルカヤはトルコ語で「碑文の岩場」という意味があり、その名の通り数々のレリーフが良好な状態で残っています。

この遺跡はヒッタイト人が、彼らが信仰する神に祈りを捧げた場所で、重要な聖所でした。当時崇められていた神や王の姿が描かれたレリーフを見ることができる貴重な遺跡です。

ヒッタイトについて詳しく知りたい方は、ぜひ1度訪れてみてください。

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