ヒッタイトの歴史年表
ヒッタイトの起源
紀元前1900年、ヒッタイト人たちはどこからか中央アナトリア地域へと移住してきました。彼らの移住は、同時代に起こる民族大移動のきっかけとなります。
ヒッタイト人は最初から中央アナトリアへ集まって定住していたわけではなく、いくつかのグループに分かれそれぞれの都市で生活していました。さらに、ヒッタイト人はもともとアナトリアで暮らしていたハッティ人やアッシリアの商人からさまざまな文化を取り入れています。
時が経つと、都市国家ボアズキョイを中心とする強力な支配者グループが出現します。彼らは分かれていた都市をまとめ上げて中央アナトリアの大部分を支配し、ヒッタイト王国を建国しました。
ヒッタイト古王国時代
ヒッタイト古王国時代の歴史は紀元前1680年から紀元前1400年ごろまで続きます。この時代は外征が多く、他国への侵略の歴史と言えます。
ヒッタイト王国建国
中央アナトリアで小国分立状態のヒッタイト人をまとめ、ヒッタイト王国を建国したのはラバルナ1世です。彼は後にヒッタイトの伝説的な王として語り継がれ、「ラバルナ」という名前は王の称号をさす言葉となります。
ラバルナ1世は、クッシャラを本拠地としていましたが、ハットゥシャを再建するとそこに都を移し「ハットゥシリ1世」と改名しました。
ハットゥシリ1世は、シリア北部のヤムハドまで遠征し、戦果をあげていましたが、首都のアレッポを攻め落とせませんでした。当時のヒッタイト王国内では、息子と家臣が反逆を企てていたのです。
これに怒ったハットゥシリ1世は、パンクと呼ばれる貴族会議で養子のムルシリ1世を王位継承者にすると宣言しました。
ヒッタイトの外征と内戦
ハットゥシリ1世が亡くなり、王位は遺言通りムルシリ1世に譲られました。
ムルシリ1世は前王が行っていたシリア北部への侵略を継ぎ、ハットゥシリ1世が果たせなかったアレッポを征服します。紀元前1595年にアレッポを落としたムルシリ1世は、次にユーフラテス川を下り、メソポタミア地方へ侵略の手を伸ばしました。
圧倒的な戦力でムルシリ1世は、当時メソポタミアを支配していた古バビロニア王国を滅ぼします。しかし、ムルシリ1世はバビロニアを支配下におかず、バビロニアの同盟国のカッシートに引き渡します。というのも、ヒッタイト国内で紛争が起こっていたからです。そのため、軍を引き国へ帰る必要がありました。
ヒッタイト王国へと帰ったムルシリ1世ですが、帰国後すぐに暗殺されてしまいます。ムルシリ1世が不在の間に、彼の義弟のハンティリ1世が陰謀を計画し、実行したからです。計画が見事成功し、ハンティリ1世は自ら王位につきました。
ヒッタイト王国衰退
ハンティリ1世が王となってからヒッタイト王国では謀反が相次ぎます。ヒッタイト王国の混乱を察知した、チグリス川・ユーフラテス川上流に住むフルリ人はこれを好機と見て、アレッポとその周辺地域を奪い取りました。
こうしてヒッタイト王国は衰退期に入ります。
優れた王は出ず、支配領域も小さくなっていきました。この時期のヒッタイト古王国の不安定な情勢の一因として、王権の在り方があります。
当時のヒッタイト王国では、王は市民の中のリーダーという位置付けでした。エジプトやメソポタミアのような「生きる神」という特別な存在ではなかったのです。
ヒッタイト王国の混乱に終止符を打ったのは、ムルシリ1世から数代後の王テリピヌです。彼は勅令を出して次の3つを定めました。
- 第一王子が王位を継ぐこと
- 第一王子がいなければ第二王子が継ぐこと
- もし王子がいなければ第一王女の婿が継ぐこと
上記以外に、200条から構成されるヒッタイト法典を作り、テリピヌは国内の秩序を回復させていきます。また彼は南西方面にあったフルリ人の国の1つ、キズワトナと同盟を結び、ミタンニ王国に何度か勝利していました。
ヒッタイト中王国時代
紀元前1500年のテリピヌの治世が古王国時代の最後になりました。ヒッタイトは、ここから新王国時代まで長い弱小期が始まります。紀元前15世紀になにがあったかは、記録が不十分でほとんどわかっていません。
中王国時代は、古王国と新王国をつなぐ過渡期に当たります。詳細のわからない期間が70年続いたのち、新王国へと時代が移ります。