「レコンキスタって何だろう?」
「レコンキスタと十字軍ってどう違うの?」
「レコンキスタと大航海時代のかかわりは?」
このページを見てくれている人はそんな疑問を持っているかもしれません。レコンキスタとは日本語では国土回復運動といいます。キリスト教勢力がイスラーム教徒に奪われたイベリア半島の国土を取り返す運動のことをレコンキスタといいます。
レコンキスタは8世紀から15世紀まで続く長い運動でした。その間、キリスト教勢力はイスラーム教勢力を徐々に南に押し返し、領土を拡大していきました。そして、1492年にイベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝を滅ぼし、キリスト教勢力がイベリア半島を奪還します。
今回はレコンキスタの内容や特色、大まかな流れ、レコンキスタを扱った書籍や映画・ドラマなどについてまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
レコンキスタ(国土回復運動)とは?
レコンキスタという言葉の意味は?
レコンキスタはスペイン語で「Reconquista」とつづります。reは再びという意味でconquistaは征服するという意味です。したがって、レコンキスタとは「再征服」という意味になります。
これは、キリスト教徒がイスラーム教徒に奪われたイベリア半島を、キリスト教徒が再び征服するという意味合いの言葉です。ポルトガル語では「ルコンキシュタ」といいますが、意味合いは「レコンキスタ」と同じです。
これを踏まえ、日本語では「国土回復運動」、あるいは「再征服運動」という訳語があてられてきました。いずれもキリスト教徒側の目線で語られた言葉だということに注意が必要です。
レコンキスタの原因はイスラームのイベリア半島征服
レコンキスタの原因は、イスラーム教勢力がイベリア半島のキリスト教国家である西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を支配したことでした。711年、イスラームのウマイヤ朝の軍勢は西ゴート王ロドリーゴの軍をグアダレーテの戦いで打ち破り、西ゴート王国を滅ぼします。
イベリア半島を支配したウマイヤ朝はキリスト教徒やユダヤ教徒などの非イスラーム教徒がジズヤ(人頭税)を支払うことと引き換えに彼らの信仰を認めました。
西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝軍はピレネー山脈を越えフランク王国を攻撃します。しかし、フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を阻止したため、イスラーム勢力はイベリア半島より北を征服できませんでした。
西ゴート王国滅亡後、キリスト教勢力はイベリア半島北西部にアストゥリアス王国を建国しウマイヤ朝に対抗します。やがて、キリスト教勢力は力をつけ徐々に戦線を南に押し下げ、領土をイスラーム教徒から取り戻しました。
カトリック両王によって終焉を迎える
カトリック両王とは、アラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イサベルのことです。カスティリャもアラゴンもキリスト教国家としてレコンキスタの最前線に立ち続けた国でした。彼らは1469年に結婚します。
その後、フェルナンド2世の父、イサベルの父がともに亡くなり彼らがそれぞれの王国で国王・女王に即位します。そして、1479年にカスティリャ・アラゴン両王国は合同しスペイン王国が誕生します。彼ら二人はカトリック両王とよばれました。
カトリック両王はキリスト教側に優勢に進んでいたレコンキスタを続行し、イベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝を追い詰めます。1492年、ついにスペイン軍はナスル朝の都であるグラナダを攻め落としレコンキスタを完成させました。
レコンキスタの特色
十字軍とレコンキスタは同時期に行われた
十字軍運動とは、11世紀末から13世紀末まで行われたキリスト教世界の対外膨張の軍事行動を指す言葉です。そして、十字軍とレコンキスタ、ドイツ人の東方植民は同時期に行われたものでした。
もっとも有名な軍事行動は聖地エルサレム奪還を目指し中東に派遣されたもので、何の注釈もつかなければこの聖地奪還の軍事行動を十字軍といいます。同じころ、ドイツ騎士団は異教徒が支配するプロイセンを征服する東方植民をおこなっていました。カトリック・キリスト教世界の東方拡大はリトアニアの改宗まで続きます。
イベリア半島で行われていたレコンキスタも広い意味で十字軍の一つと言えます。レコンキスタは本家の十字軍やドイツの東方植民よりも長期間継続して行われました。ゆっくりではありますが、着実にイスラーム勢力を南に押し返し、キリスト教勢力による「国土回復」を成し遂げていったのです。