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レコンキスタとは?意味や流れ、原因を分かりやすく簡単に解説

「レコンキスタって何だろう?」
「レコンキスタと十字軍ってどう違うの?」
「レコンキスタと大航海時代のかかわりは?」

このページを見てくれている人はそんな疑問を持っているかもしれません。レコンキスタとは日本語では国土回復運動といいます。キリスト教勢力がイスラーム教徒に奪われたイベリア半島の国土を取り返す運動のことをレコンキスタといいます。

レコンキスタは8世紀から15世紀まで続く長い運動でした。その間、キリスト教勢力はイスラーム教勢力を徐々に南に押し返し、領土を拡大していきました。そして、1492年にイベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝を滅ぼし、キリスト教勢力がイベリア半島を奪還します。

今回はレコンキスタの内容や特色、大まかな流れ、レコンキスタを扱った書籍や映画・ドラマなどについてまとめます。

レコンキスタ(国土回復運動)とは?

レコンキスタという言葉の意味は?

レコンキスタの象徴とされるサンティアゴ・マタモーロス(モーロ人殺しの聖ヤコブ)

レコンキスタはスペイン語で「Reconquista」とつづります。reは再びという意味でconquistaは征服するという意味です。したがって、レコンキスタとは「再征服」という意味になります。

これは、キリスト教徒がイスラーム教徒に奪われたイベリア半島を、キリスト教徒が再び征服するという意味合いの言葉です。ポルトガル語では「ルコンキシュタ」といいますが、意味合いは「レコンキスタ」と同じです。

これを踏まえ、日本語では「国土回復運動」、あるいは「再征服運動」という訳語があてられてきました。いずれもキリスト教徒側の目線で語られた言葉だということに注意が必要です。

レコンキスタの原因はイスラームのイベリア半島征服

西ゴート王国がウマイヤ朝軍に敗れたグアダレーテの戦い

レコンキスタの原因は、イスラーム教勢力がイベリア半島のキリスト教国家である西ゴート王国を滅ぼしイベリア半島を支配したことでした。711年、イスラームのウマイヤ朝の軍勢は西ゴート王ロドリーゴの軍をグアダレーテの戦いで打ち破り、西ゴート王国を滅ぼします。

イベリア半島を支配したウマイヤ朝はキリスト教徒やユダヤ教徒などの非イスラーム教徒がジズヤ(人頭税)を支払うことと引き換えに彼らの信仰を認めました。

キリスト教世界を守ったトゥール・ポワティエ間の戦い

西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝軍はピレネー山脈を越えフランク王国を攻撃します。しかし、フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク王国軍がウマイヤ朝軍を阻止したため、イスラーム勢力はイベリア半島より北を征服できませんでした。

西ゴート王国滅亡後、キリスト教勢力はイベリア半島北西部にアストゥリアス王国を建国しウマイヤ朝に対抗します。やがて、キリスト教勢力は力をつけ徐々に戦線を南に押し下げ、領土をイスラーム教徒から取り戻しました。

カトリック両王によって終焉を迎える

レコンキスタを完成させたカトリック両王

カトリック両王とは、アラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イサベルのことです。カスティリャもアラゴンもキリスト教国家としてレコンキスタの最前線に立ち続けた国でした。彼らは1469年に結婚します。

その後、フェルナンド2世の父、イサベルの父がともに亡くなり彼らがそれぞれの王国で国王・女王に即位します。そして、1479年にカスティリャ・アラゴン両王国は合同しスペイン王国が誕生します。彼ら二人はカトリック両王とよばれました。

カトリック両王はキリスト教側に優勢に進んでいたレコンキスタを続行し、イベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝を追い詰めます。1492年、ついにスペイン軍はナスル朝の都であるグラナダを攻め落としレコンキスタを完成させました。

レコンキスタの特色

十字軍とレコンキスタは同時期に行われた

十字軍の戦いの一つであるアッコン防衛戦

十字軍運動とは、11世紀末から13世紀末まで行われたキリスト教世界の対外膨張の軍事行動を指す言葉です。そして、十字軍とレコンキスタ、ドイツ人の東方植民は同時期に行われたものでした。

プスコフ(ロシア西部)を陥落させたドイツ騎士団

もっとも有名な軍事行動は聖地エルサレム奪還を目指し中東に派遣されたもので、何の注釈もつかなければこの聖地奪還の軍事行動を十字軍といいます。同じころ、ドイツ騎士団は異教徒が支配するプロイセンを征服する東方植民をおこなっていました。カトリック・キリスト教世界の東方拡大はリトアニアの改宗まで続きます。

イベリア半島で行われていたレコンキスタも広い意味で十字軍の一つと言えます。レコンキスタは本家の十字軍やドイツの東方植民よりも長期間継続して行われました。ゆっくりではありますが、着実にイスラーム勢力を南に押し返し、キリスト教勢力による「国土回復」を成し遂げていったのです。

レコンキスタの中心となった三王国

ポルトガル王国

ポルトガルを建国したアフォンソ1世

ポルトガルはカスティリャ王に従っていた騎士エンリケがポルトゥカーレ(現在のポルト市)を支配したのが始まりです。ポルトゥカーレ伯領は南のコインブラ伯領を統合し勢力を拡大しました。そして、エンリケの子のアフォンソは王を名乗ってカスティリャと戦い独立します。これが、ポルトガル王国の始まりです。

ポルトガルによるリスボン征服

カスティリャ王国から独立したポルトガルは南部のイスラム教勢力との戦いを精力的に進め、1147年にリスボンを攻略しました。その後、テンプル騎士団などの支援を受けたポルトガルはナバス・デ・トロサの戦いに参戦して勝利しイスラーム勢力に対する優位を確立します。

そして、1212年にポルトガル王アフォンソ3世は南部のイスラーム勢力の拠点であるファロとシルヴェスを征服し、一足早くポルトガルでのレコンキスタを完成させました。

アラゴン王国

アラゴン王国は1035年にイベリア半島東北部に成立しました。レコンキスタが盛り上がるとアラゴン王国も領土を南に拡大します。1118年にはエブロ川流域に進出し、サラゴサの街を占領しました。以後、アラゴン王国はサラゴサを都とします。

アラゴン王国の支配領域

そして、1137年にバルセロナを征服し勢力を大きく拡大しました。また、同じ年の1137年にピレネー山脈周辺を領有していたカタルーニャ公国とアラゴン王国が合同し連合王国となっています。こうして力を増したアラゴン王国はイベリア半島東部のバレンシア地方に進出し、地中海沿岸部のレコンキスタを完成させました。

ちなみに、アラゴン王国はイタリア南部のナポリ王国も支配します。アラゴン王国はナポリやシチリアも支配する海洋王国でもあったのです。

カスティリャ王国

カスティリャ王国の国旗

カスティリャ王国はイベリア半島北西部に成立したキリスト教の王国でレコンキスタの中心勢力となった国です。カスティリャ王国の歴史は10世紀に始まります。その後、レコンキスタの推進と共に領土を拡大し1037年にはレオン王国と同君連合の国家となりました。

カスティリャの語源はスペイン語で城を意味する「カスティーリョ」だとする説が有力です。多くの城が点在することからその名がつけられました。これらの城はイスラーム勢力との戦いが激しかったことを物語ります。

1212年におきたナバス・デ・トロサの戦いでポルトガル、アラゴンとともにイスラーム勢力と戦いこれに勝利します。その後もカスティリャ王国の南進は続き1236年にはコルドバを奪取しました。

北アフリカからイスラームの援軍

ムワッヒド朝の領土

キリスト教諸国の南進に危機感を抱いたイベリア半島のイスラーム勢力はモロッコを支配するムラービト朝やムワッヒド朝に援軍を求めます。というのも、後ウマイヤ朝滅亡後、イベリア半島には統一したイスラーム王朝はなく、各地の地方政権がカスティリャ、アラゴン、ポルトガルに各個撃破される状況だったからです。

勢力を拡大したムラービト朝

11世紀後半にイベリア半島に進出したのはベルベル人の王朝であるムラービト朝でした。ムラービト朝は勇猛な王朝でキリスト教勢力の南進を押しとどめます。しかし、それは一時のことで、12世紀前半には再びキリスト教勢力が優位に立ちます。

すると、モロッコでムラービト朝を滅ぼした同じベルベル人のムワッヒド朝がイベリア半島に進出します。1195年にイベリア半島に進出したムワッヒド朝のアル・マンスールは強大な軍事力でカスティリャ王アルフォンス8世に勝利し、11世紀にキリスト教勢力に奪われたトレドまで攻め込みました。

文化交流は継続

レコンキスタが行われている最中も、キリスト教勢力とイスラーム教勢力の文化交流は継続しました。たとえば、11世紀後半にキリスト教勢力が奪還したトレドではイスラーム教徒に寛大で、彼らに引き続き居住することを許しています。

トレド出身でアラビア語からラテン語への翻訳を推進したカスティリャ王アフォンソ10世

そして、12~13世紀にかけて、トレドには翻訳学校がつくられました。この学校ではイスラームの文献がラテン語に翻訳され、ヨーロッパで失われた古代ギリシア文化の書籍がヨーロッパ世界に逆輸入されるきっかけを作っています。

古代末期、ゲルマン人の侵入など社会的に混乱する中で多くの貴重な書物が失われました。その一方で、古代ギリシアの書物はイスラーム世界でアラビア語に翻訳され受け継がれてきました。そのアラビア語の本が再びラテン語にされキリスト教世界に大きな影響を与えたのです。

レコンキスタの終盤に大航海時代開始

ポルトガルのエンリケ航海王子

レコンキスタ終盤の15世紀前半、ポルトガルの王子エンリケはアフリカ西岸に艦隊を派遣し、アフリカ西岸の探検を始めました。きっかけとなったのは1415年のセウタ征服です。セウタはモロッコの港町でジブラルタル海峡に面した重要都市でした。

この街を拠点としてポルトガルはアフリカ西岸への進出を図ります。この動きを後押ししたのが新たな領地を獲得したい封建領主とモロッコの富に目をつけていた首都リスボンの商人たちでした。しかし、ポルトガルは重要都市タンジールの攻略には失敗してしまいます。以後、海沿いの地域を中心にポルトガルの進出が行われるようになりました。

アフリカ探検を推し進めたエンリケ航海王子

エンリケが派遣した艦隊は1420年にマディラ島、1431年にアゾレス諸島に到着し、それらの島々をポルトガル領とします。これ以後、ポルトガルはアフリカ探検を続けエンリケ航海王子の死後である1488年に最南端の喜望峰に達します。

コロンブスの探検

「新大陸」に到達したコロンブス

ポルトガルがアフリカ探検を本格化させていた15世紀後半、一人の航海者がポルトガルとは逆の西回りでインドに到達できると考え各国の支援を求めていました。彼の名はコロンブス。のちに、「新大陸」に初めて到達したヨーロッパ人となります。

コロンブスの提案に対し、インドまであと一歩に迫っていたポルトガルは冷淡でした。しかたなく、コロンブスはカトリック両王に提案を持ち掛けます。この提案にイサベル女王は乗り気でした。しかし、レコンキスタが大詰めを迎え多額の軍事費を必要としていたスペインはコロンブスの提案を見送ります。

ところが、1492年にスペインがナスル朝を滅ぼすと状況は一変します。イサベルはコロンブスの提案に乗り、彼の艦隊を大西洋に送り出しました。そして、1492年10月にコロンブスは西インド諸島にたどり着きました。レコンキスタがもう少し長引けば、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

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