レコンキスタの歴史年表
711年:西ゴート王国の滅亡
西ゴート人はゲルマン人の一派です。5世紀前半にフランス南部からイベリア半島にかけて支配する西ゴート王国をたてます。西ゴート人はキリスト教を受け入れたので、イベリア半島はキリスト教勢力が支配することになります。
711年、西ゴート王国内の反国王派はモロッコまで征服していたウマイヤ朝を西ゴート王国内に引き入れます。西ゴート王ロドリーゴはグアダレーテ川でウマイヤ朝軍を迎撃しましたが大敗します。その結果、ウマイヤ朝に都のトレドを奪われ西ゴート王国が滅亡しました。
その後、勢いに乗ったウマイヤ朝軍はピレネー山脈を越えてフランク王国領になだれ込みます。しかし、フランク王国の宮宰カール・マルテル率いるフランク王国軍はトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍に勝利し、かろうじてキリスト教勢力を守り切りました。
718年:アストゥリアス王国が成立
西ゴート王国滅亡後、ウマイヤ朝軍に抵抗をつづけた西ゴート貴族ペラーヨはイベリア半島北西部にアストゥリアス王国を建国しました。722年、イスラーム勢力がアストゥリアス王国に迫りましたが、コバドンガの戦いで勝利し、イスラーム勢力を食い止めます。
8世紀末から9世紀にかけてアストゥリアス王となったアルフォンソ2世は西隣のガリシア地方を征服し領土を拡大しました。
910年、アストゥリアス王国は都をレオンに移します。以後、レオン王国と呼ばれるようになりました。レオン王国は他のキリスト教諸国と連携し、ウマイヤ朝の跡を継いだ後ウマイヤ朝に対抗します。のち、レオン王国の一部が分離独立しカスティリャ王国となります。
1031年:後ウマイヤ朝の滅亡
後ウマイヤ朝は8世紀から11世紀にかけてイベリア半島を支配したイスラーム王朝です。10世紀のアブド・アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎え、都のコルドバは西方イスラーム世界の中心地として繁栄しました。
しかし、後ウマイヤ朝は10世紀後半から急速に衰退します。原因は地方勢力の反乱でした。そして、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡します。その後、イベリア半島のイスラーム勢力はタイファとよばれる30ほどの小王国に分裂します。
イスラーム勢力の分裂はキリスト教側にとってまたとない好機となりました。後ウマイヤ朝の滅亡後、レコンキスタはその勢いを増し、キリスト教勢力の南下の勢いが加速します。タイファ諸国はキリスト教勢力によって各個撃破され、レコンキスタの戦線は南に押し下げられました。
1212年:ナバス・デ・トロサの戦い
後ウマイヤ朝の滅亡後、カスティリャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国などはタイファ諸国に対し攻勢を強めました。タイファ諸国はこの攻撃に対処するため北アフリカのモロッコを根拠地とするムラービト朝やムワッヒド朝に援軍を要請しました。
これにこたえ、北アフリカのイスラーム勢力はたびたびジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に派兵しました。そして、ムワッヒド朝は1211年にはサルバティエラ城を占領しキリスト教諸国に強い圧力をかけます。
時の教皇インノケンティウス3世は「キリスト教諸国はカスティリャ王国を中心に団結せよ」と命じ、カスティリャ・アラゴン・ナバラ王国の同盟が成立します。こうして結集した三王国を中心とするキリスト教諸国連合軍は南下し、ムワッヒド朝の軍勢と対峙しました。
兵力はキリスト教徒側が5万前後、イスラーム教徒側が10万以上といわれています。戦いはナバラ王サンチョ7世の敵本陣突撃などが功を奏し、キリスト教徒側の勝利で終わりました。以後、イベリア半島での戦局はキリスト教徒側優位で推移します。
1230年:ナスル朝の成立
ナバス・デ・トロサの戦いに敗れたムワッヒド朝はモロッコに後退しました。分裂するタイファ諸国の一国だったナスル朝はアンダルス(現在のアンダルシア地方)とよばれるイベリア半島南部地域を統一し、ナスル朝グラナダ王国を成立させます。
ナスル朝の支配領域は大きくありませんでしたが、グラナダ周辺の山岳地帯を利用し守備を固めます。また、カスティリャ王国との間で巧みな外交を展開し250年以上にわたってアンダルスの支配を維持することに成功しました。
その間、ナスル朝はグラナダにアルハンブラ宮殿を建造します。アルハンブラ宮殿はグラナダ南東部の丘の上に建てられた宮殿で、軍事施設も備える城塞でした。この宮殿は今でも存在し、世界遺産として多くの観光客を迎えています。