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遼東半島とはどんな場所?歴史や位置、旅順まで分かりやすく解説

「歴史にでてくる遼東半島ってどこにあるの?」
「どんな都市があり、どんな歴史や文化があるんだろう」

歴史の授業で出てくる遼東半島について、こんなふうに疑問に感じたことはありませんか。たった一度聞いただけなのに、なぜか強烈に記憶に残る名前「遼東半島」。

朝鮮半島と山東半島に包まれるように位置する遼東半島

地理的に日本から近いことや独特な読み方の名前も記憶しやすいことの理由です。何より、歴史の授業で習うとおり、この遼東半島が日本の国の歴史に大きく関わったことがありました。さらに第二次世界大戦までの間、租借(相手国の同意のもと一定期間借りること)というかたちで日本が遼東半島を支配をした歴史もあります。

今回は日本と日本人にふかい係わりをもった遼東半島をテーマに、歴史と地理、観光名所などについてご紹介します。

遼東半島とは

まず、遼東半島がどんな場所であるかについて、概要と代表的な3つの都市、地理的環境についてを見ていきたいと思います。

遼東半島を簡単に説明すると?

遼東半島は中国遼寧省南部の半島です。遼河の東岸に位置していることから「遼東」と名付けられました。中国では山東半島についで第2の大きさをほこる半島として知られています。産業としては、穀物栽培や漁業が盛んです。

遼東半島には大連、営口そして丹東という主要な都市があります。以下、それぞれの都市の特徴についてまとめています。

大連

空からみた大連市の様子
国家中華人民共和国
遼寧省
行政級別副省級市
成立1899年
面積13,237km²(市区面積2,415km²)
人口583.37万人(2012年)
市樹エンジュ
市花ロサ・キネンシス

1898年、日清戦争後の三国干渉の見返りとしてロシアが租借し発展させた都市です。もともとの名称は三山(魏とつづく晋の時代)、三山浦(唐の時代)、三山海口または青泥窪口(明・清の時代)と呼ばれていました。ロシア人がこの地を「ダーリー(ロシア語で「遠い」の意味)」と呼んだことに倣いロシアの後を受けて支配した日本も「大連」と字を当ててよんでいます。そのため現在の名称が定着することになりました。

営口

営口市・遼河老街の風景
国家中華人民共和国
遼寧省
行政級別地級市
成立1949年
面積5,399.8 km²(市区面積842 km²)
人口244万人(2015年)

1858年の天津条約では牛荘が開港されるはずだったのですが、堆積土などのため港としての使用に耐えられず、代わりに営口が開港地として登場しました。その後、対外的な貿易港としての機能は大連に譲り、営口は沿岸貿易の港となり現在に至っています。

丹東

丹東市の元宝山からみた丹東市街と対岸の北朝鮮・新義州方面
国家中華人民共和国
遼寧省
行政級別地級市 
成立1876年
面積15,030 km²(市区面積563 km²)
人口241万人(2015年)
市樹イチョウ
市花ツツジ

紀元前から7世紀頃にかけて朝鮮半島北部・中国東北部を支配した高句麗の領土となりますが、のち唐が高句麗を征服すると中国領となります。清により1876年に安東県がおかれると、以後は安東港として対外的に開港しています。鴨緑江の水運が物資輸送に利便であったために、日本支配時代に多数の日本企業が進出したほか、朝鮮戦争時に軍需物資を集積する兵站基地としても活用されました。なお、1965年に安東市から丹東市へと改称されています。

地理的環境

朝鮮半島の北西に位置する遼東半島は、対岸の山東半島に向かって突き出た地形となっています。

鴨緑江

丹東を支えた鴨緑江の水運機能

遼東半島の付け根の東を流れる鴨緑江は、中国と北朝鮮の国境となっている川です。白頭山を水源とし、黄海に流れます。

上流に位置する水豊ダムは、日本統治時代に建設され、その湛水面積(面積345km²)は琵琶湖の半分に相当します。建設当時は東洋一の規模をほこり、現在も北朝鮮の重要な電力源となっています。

遼河

遼河デルタに見られる紅海灘

遼東半島の付け根の西を流れる遼河は、内モンゴル方面から流れる西遼河と、吉林省方面から流れる東遼河が合流し遼河となります。遼寧省を北から南へと流れて、営口から遼東湾に注ぐ外遼河(大遼河とも呼ばれる)、盤錦市から遼東湾に注ぐ双台子河とに分流します。

千山山脈

千山山脈の大黒山(大連市)

遼寧省東部の千山山脈は、中国・北朝鮮の国境からつづく長白山脈の支脈です。吉林省から遼陽市を経て大連市まで伸びており、山脈の東を鴨緑江、西を渾河が流れます。主峰は綿羊頂子山(1046m)ですが、概ね標高500m程度の山々が連なっています。主として花崗岩、石灰岩からなるため所々侵食されており、山地と平坦地がおり重なるような地形となりました。

渤海

厳冬期には凍結が見られることもある渤海

遼東半島と山東半島に囲まれた海域が渤海です。内部に3つの湾口を抱えており、湾内北にあるのが遼東湾、同様に西が渤海湾、南が莱州湾です。また、遼東半島と山東半島に挟まれた海域を渤海海峡といいます。

水深25mと浅く、干満の差が大きい(3m)ことが特徴で、古くから製塩と漁業が盛んでした。なお、渤海(この海域全体)と渤海湾(渤海の中の一つの湾口)が混同されがちですが、こちらは別のものを指しています。

黄海

黄河から黄海へと黄土が流れる様子

中国大陸と朝鮮半島に囲まれた海域が黄海です。渤海海峡によって渤海とつながっています。遼東半島と朝鮮半島の間の凹みが西朝鮮湾でここに鴨緑江が注ぐ形となっています。黄河から運ばれる黄土のために濁って見えることから「黄海」とよばれており、フランスの地図学者・ダンヴィル(1697年〜1782年)が1737年に作成した地図にその名が現れています。

遼東半島の歴史年表

紀元前771年~紀元前403年(紀元前453年とも):春秋時代

遼東半島が燕の領土として記録に現れる。

189年:後漢末

公孫氏が遼東の太守に任命されています。その後、一時は楽浪郡や山東半島にまで支配を拡大しました。魏・呉・蜀の三国時代は、魏に臣従しつつ、呉と同盟を結んで独立を企図しました。237年に公孫氏が燕王を称して独立しますが、翌年魏の司馬懿により征伐されました。

なお、この時代の大連は「三山」と呼ばれています。唐の時代には「三山浦」、明~清時代には「三山海口」または「青泥窪口」と呼ばれていました。

1856年:アロー戦争

アロー号拿捕がきっかけとなり戦争に発展

清国官憲がイギリス船籍のアロー号を臨検・拿捕したアロー号事件を発端に起きた清国軍とイギリス・フランス連合軍による戦争。1858年の天津条約により開港が決められた牛荘の代わりとして、1864年に営口が開港されました。1860年の北京条約で最終的に停戦されました。

1878年:清国、旅順を要塞化

北洋艦隊主力艦のひとつ「鎮遠」

1878年、清国は旅順に要塞を設け清国・北洋艦隊の根拠地とします。なお、北洋艦隊は1888年に創設された清国艦隊です。威海衛や旅順を母港としていましたが、日清戦争における威海衛の戦いにより壊滅的打撃を受けました。

1894年:日清戦争勃発

朝鮮をめぐる日・清・露の3か国を描いたジョルジュ・ビゴーの風刺画

朝鮮に対し宗主国として介入しようとする清国と、朝鮮の独立を保持し逆に介入を試みたい日本との間で戦端が開かれます。日本が勝利し、翌1995年4月の下関条約により遼東半島は日本に割譲されることとなりました。

1895年:三国干渉

下関条約で日本が得た領土

4月下関条約に対し、ロシア・フランス・ドイツの三か国が干渉をします。ロシア帝国の外相であったウイッテが主唱しフランス・ドイツがこれに追従するかたちで「日本の遼東半島領有は極東の平和を妨げる」と主張し、日本に対して放棄するよう迫ったのです。日本にはこれに抗する力がなく、11月には清国との間で返還条約を締結しています。

1896年:見返りをもとめた三国

三国干渉の結果、列強による中国分割が進行した

三国干渉の翌1896年、ロシア・フランス・ドイツの三か国は、三国干渉による成果に対する見返りを清国に要求しました。これによりロシアは1896年に東清鉄道の敷設権を獲得したほか、1898年には遼東半島の先端に位置する「旅順・大連」の租借を認められています。清国としては日本に対する賠償金の財源として自国の領土を切り売りするしかなかったとう事情がありました。

1904年:日露戦争勃発

日露戦争の帰趨を決した日本海海戦

1904年2月、日本とロシアとの間で戦端が開かれます。

日本海軍の目標は、ロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の殱滅ないし封鎖(閉塞)でした。ロシア・バルチック艦隊がバルト海から回航して日本海に到達する、その時点までに達成できなければ挟撃され、あるいは陸軍が孤立する恐れもあったためです。

日本は、陸軍・海軍の協同により、多数の死傷者を出しつつも旅順要塞を陥落させることに成功しました。翌1905年3月の奉天会戦で勝利すると、ついで同年5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を撃破しました。

ここまでで国力の消耗が大きく戦争の継続が厳しい状況になっていた日本と、同年1月に「血の日曜日事件」をはじめロシア第一革命の動きなどから政情不安定に陥ったロシアの意向が合致し、同年9月にポーツマス条約を締結することとなりました。結果として、日本は「旅順・大連」に対するロシアの租借権を継承し以後「関東州」の一部として支配してゆくことになります。

1915年:対華二十一か条の要求

袁世凱政府は一部を除き容認した

1915年、日本は中華民国の袁世凱政府に対し、二十一か条の要求を突きつけます。この中に「旅順・大連の租借期限を99か年延長すること」という一条がありました。これにより日本は旅順の植民地化を加速させていきます。

1931年:満州事変勃発~日中戦争の遠因となる

南満州鉄道の路線図

1931年、日本の関東軍が奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破した事件を契機として、満州全土を支配するに至ります。さらに1937年、盧溝橋事件により日本と中国との武力衝突がおこると、次第に戦争状態に入ります。日本は宣戦布告をしなかったため「北支事変(のち支那事変)」と呼びましたが、実質的な日中戦争がこの時から始まったとされます。

1945年:日本の敗戦

原爆投下によるキノコ雲

アメリカ軍による8月6日広島、9日長崎への原爆投下、8月9日のソ連対日参戦などにより日本はポツダム宣言受諾を決定します。1945年8月15日、日中戦争が日本の敗戦により終結すると、遼東半島(関東州)は中華民国に返還されますが、旅順・大連にはソ連軍が駐留し租借を継続しました。

1949年:中華人民共和国の成立

1949年10月1日、中華人民共和国の成立を宣言した毛沢東

1949年に中華人民共和国が成立すると、ソ連との間で「旅順・大連」に関する折衝を行います。1955年にソ連軍が撤退し、中国はようやく「旅順・大連」を回復することに成功します。三国干渉後のロシアの租借開始から半世紀以上が経過しての主権回復でした。

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