崇徳天皇の功績
功績1「和歌を好み秀歌を多く残している」
崇徳天皇は晩年は髪も爪も切らずに憤死したと伝わっていますが、在位時は和歌を愛し、当時の歌壇会の中心となっていました。父帝の鳥羽上皇が余り歌に熱心でなかったため、崇徳天皇が多くの歌会を開催したといいます。
自身に政治に実権が無かったため、天皇の熱意は和歌に傾いており沢山の秀歌を残しています。また「詞花和歌集」の編纂を藤原顕輔に命じ、完成させました。作風は清新な叙景歌に特色があり、詠懐調の歌も多くあり、多様な歌風であると評価を受けています。
功績2「日本三大怨霊として文学の題材になる」
南北朝の動乱の時期から崇徳上皇が、怨霊として文学作品に出るようになりました。「太平記」では天狗・魔王となった崇徳上皇の周りに、帝・武士・僧侶といった悲運人生をたどった歴史の人物たちと集い、魔界の宴を催している場面があります。そして最後は平清盛は晩年、崇徳天皇の怨霊に怯えており、物狂おしい行動が増えたということで締めくくられています。
また江戸時代には怨霊として、崇徳天皇のイメージは完全に定着しました。「雨月物語」や「椿説弓張月」などに登場し、菅原道真・平将門と並んで「日本三大悪霊」といわれています。「雨月物語」では、主人公の源為朝が危機に陥ると助けに来るという役どころで出ています。
崇徳天皇の和歌
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
百人一首に取られている歌です。訳は「滝の水は岩にぶつかると二つに別れて流れ離れ離れになりますが、最後は海へと繋がり再会します。そのように私たちも来世で会いましょう」です。非常に有名な歌で、たびたび文学作品や漫画で使用される名歌です。
思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを
讃岐で過ごしている時に作られた歌です。訳は「思いやってください、都の遥か先であるこの地で起きる波に隔てられており、私は心細い毎日を送っているのです」崇徳上皇の心細い心情が伝わってくる歌です。
濱千鳥 跡は都に 通へども 身は松山に 音をのみぞなく
讃岐で詠んだ歌です。「私の筆跡は京に送ったが、私の身は讃岐の松山で待ち続け泣き偲ぶばかりです」となります。千鳥と鳴くで泣くを掛けて、松に待つを掛けています。縁語をふんだんに使う崇徳上皇の和歌の巧みさと悲哀を感じる歌です。
崇徳天皇の人物相関図
崇徳天皇にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「崇徳上皇葬儀時に不思議なことが起こったこと」
崇徳上皇が崩御した後に、不思議な出来事が起こったといいます。崩御後、讃岐国府は遺体をどうしていいか分からず朝廷に連絡をして指示を待つことにしました。しかし丁度夏の暑い盛りの頃であった為、遺体を腐らせないために冷たい水で冷やすことにしたそうです。
そこで地元でも枯れたことがない名水「八十場の霊泉」で、京と讃岐を使者が往復する約二十日間を冷やされて過ごしました。ご遺体は20日過ぎても腐らずに綺麗に残っていたと伝わっています。そして「白峯寺」に埋葬するようにと指示が来たために、八十場の霊泉からご遺体を棺に入れて出発します。
白峯山の麓で激しい豪雨に見舞われた為に、一旦棺を石の上に置いて休憩をとったといいます。そして、雨が止んだので出発しようと棺を持ち上げると下の石が血で赤く染まっていたそうです。また火葬の時に煙が東に向かっていたため、「帝は京に帰りたがっている」と噂したと讃岐で伝わっています。
都市伝説・武勇伝2「玉藻御前のモデル藤原得子に振り回された人生」
崇徳天皇の人生は、兎に角父の鳥羽上皇と、寵妃の美福門院に振り回された人生といえます。美福門院得子は摂関家出身ではないのに、立后をし絶大な権力を握った女性でした。まず得子が産んだ体仁皇子(近衛天皇)を皇位に付けたい為に崇徳天皇は譲位させられました。
そして近衛天皇が崩御した後は、美福門院が養子にしていた守仁親王(二条天皇)を即位させたい為に、崇徳天皇の皇子重仁親王ではなく、守仁親王の父である雅仁親王(後白河天皇)が即位することとなります。美福門院の意向が、天皇の寵の深さ故に大きな発言権得ていました。
室町時代の「お伽草紙」の「玉藻前」という九尾の狐のモデルが美福門院といわれています。物語では、鳥羽上皇の寵妃として描かれ、美貌と博識で寵を思いのままにしますが最後は打ち取られ、巨大な毒石になったとされています。そのような物語のモデルになるほど、鳥羽上皇が寵愛し、政治を陰から翻弄した女性ということといえるでしょう。