崇徳天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【怨霊伝説や和歌も紹介】

崇徳天皇の生涯年表

1119年 – 0歳「崇徳天皇、鳥羽天皇の第一皇子として生をうける」

生まれた時から複雑な事情を持って生まれた皇子でした

1119年に、鳥羽天皇と中宮藤原璋子の第一皇子として誕生します。1か月後には親王宣下を受け,

「顕仁」と命名されました。複雑な事情を持っての誕生でした。

1123年 – 3歳「僅か3歳で天皇となる」

まだ幼い天皇の誕生でした

1123年に皇太子宣下を受け、同年に即位しました。僅か3歳7か月での即位となりました。この異例の速さの即位の裏には、曾祖父の後白河院の意向が大きく反映されていました。

中宮藤原聖子が入内し、同年曾祖父白河上皇が崩御する

聖子は忠通の唯一の嫡妻腹の娘でした

1129年に、関白藤原忠通の娘、聖子が入内しています。翌年には中宮になりました。二人の仲は良好でしたが、子宝に恵まれませんでした。そして、同じ年に崇徳天皇の最大の後見人だった曾祖父白河上皇が崩御し、崇徳の将来に少しづつ暗雲が立ち込めるようになったのです。

1140年 – 21歳「第一皇子重仁親王が誕生する」

重仁親王の誕生は中宮聖子にとっては面白くなかったといいます

1140年に、側室の兵衛佐局が第一皇子「重仁親王」を出産します。これにより崇徳天皇の寵は徐々に聖子から兵衛佐局に移っていったといいます。このことにより、関白の藤原忠通と聖子は快く思わなかったと伝えられています。このことが、後に保元の乱のときに藤原忠通が崇徳天皇と重仁天皇を敵視した原因となりました。

重仁親王が美福門院の養子となる

美福門院の養子になることによって、重仁親王の即位の可能性を強めようとしました

生まれてすぐ重仁親王鳥羽上皇の寵妃、美福門院の養子になっています。これにより近衛天皇が後嗣を残さずに崩御した場合は、重仁親王が皇位を継ぐことができるようになったのです。まだこの頃は鳥羽院と崇徳院の関係は深刻まではなかったといわれています。

1141年 – 22歳「退位し上皇となる」

曾祖父の白河上皇が院政のシステムの創始者でした

父帝鳥羽上皇に譲位を迫られて、弟である体仁親王(近衛天皇)に位を譲りました。近衛天皇は僅か生後2歳5ヵ月での即位でした。体仁天皇は崇徳天皇の中宮聖子の養子だったため、「皇太子」のはずでしたが、譲位の宣命には「皇太弟」となっていたといいます。この為天皇の弟では将来の院政は不可能であるために、崇徳天皇にとって遺恨の譲位となりました。

1155年 – 37歳「近衛天皇が崩御し、後白河天皇が即位する」

後白河天皇

近衛天皇が17歳で崩御したため、次の帝位を誰にするかが問題となりました。一番の有力候補は、美福門院の養子でもある崇徳天皇の第一皇子、重仁親王でしたが、結局帝位についたのは崇徳にとって弟の雅仁親王(後白河天皇)でした。

鳥羽上皇は呪詛により近衛天皇は崩御したと疑っていたといいます

理由は鳥羽上皇や美福門院が、崇徳天皇に近い家臣の藤原頼長の呪詛で近衛天皇が崩御したと信じていたからといいます。今までは鳥羽上皇が崩御した際に、崇徳上皇は治天の君となれる可能性がありましたが弟である雅仁親王が皇位をついたために、崇徳院政の可能性はなくなってしまったのです。

1 2 3 4

コメントを残す