1156年 – 38歳「保元の乱が起こる」
この年に鳥羽上皇が崩御しました。崇徳上皇は臨終の際の見舞いに対面できなかったといいます。理由は鳥羽上皇が崇徳上皇に自身の遺体を見せないように遺言していたからだといいます。崇徳上皇は憤慨してその場を後にしたそうです。
鳥羽上皇崩御後、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流れてしまいます。その為、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の綸旨が諸国に下され、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官してしまいました。
これらの措置は、鳥羽上皇の権威を盾に崇徳院・藤原頼長を抑圧していた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられています。その後崇徳上皇は少数の部下を連れて、洛東白河にある妹の統子内親王の邸宅に押し入っています。この行動は突然の行動だったらしく、既に世間では「上皇佐府同心」が流布しており鳥羽にそのままいたら拘束されると考えたための行動といわれています。
藤原頼長は挙兵し、保元の乱が起こりました。しかし軍勢は非常に脆弱であり、崇徳上皇は平清盛が味方してくれることを期待していたといいますが、重仁親王の乳母が敗北を悟って平氏側に後白河天皇側に味方するように進言したため、結果味方についてもらえませんでした。後白河天皇側は白河北殿に夜襲をかけたため、崇徳上皇は御所を脱出して行方をくらましています。
崇徳上皇は剃髪して、仁和寺に出頭し同母弟の覚性法親王に仲介をお願いしますが断られています。そのため仕方なく旧房に戻り朝廷に監視されました。そして10日後には讃岐に配流されることになりました。
讃岐に配流される
崇徳上皇は武士数十人に囲まれた網代車に乗せられて、讃岐の地に流されたのです。400年ぶりの天皇の配流だったといいます。讃岐での生活は仏教に傾倒し、歌を詠み写経をして暮らしたといいますが、写経を京に送ると「呪詛がかかっている疑いがある」として送り返されてきました。
激怒した崇徳上皇は写経に自らの血で呪いの言葉を書いたといいます。その後、髪も爪も切らずの過ごし、まるで天狗のような容貌になっていたといいます。
1164年 – 46歳「崇徳天皇讃岐で崩御する」
崇徳上皇の死因は不明ですが、46歳に崩御しました。一説には京からの刺客に暗殺されたともいわれています。崇徳天皇の死後に不思議なことが多く起こり、数年後京では不幸が続いたので崇徳上皇の怨霊が噂されるようになったといいます。
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崇徳天皇についてのまとめ
いかがでしたでしょうか。筆者は崇徳天皇の「瀬をはやみ」の歌が恋の歌で、数多い和歌の中でも一番好きな歌です。この作品を読むと和歌がお好きでロマンチストなお人柄が偲ばれるのですが、崇徳天皇の人生を知ったときは衝撃が大きく今回記事にすることができて嬉しく思っております。
院の百人一首の恋の歌を詠んで励まされた人は、平安時代から今に至るまで数多くいると思います。歌を通して院の心が残ったことが救いのように感じています。言い伝えによると、和歌が好きで仏教に深く傾倒した優しい性格だったと伝え聞かれます。そんな人を怨霊にしてしまったのは何か、私は非常に悲しく感じます。最後の時まで辱めを受けた崇徳天皇が、現在怒りを鎮めていることを祈るばかりです。最後まで読んでいただきありがとうございました。