ロヨラの功績
功績1「イエズス会の創立者」
イグナチオ・デ・ロヨラの功績といえば、何と言ってもイエズス会の創立です。実際に創立の際に奔走したメンバーは7人でしたが、ロヨラはその指揮を取って、イエズス会の創立に多大な貢献をしたのです。会を発足させるには教皇や大教書における許可、枢機卿の許諾など種々の障壁がありましたが、それらを全て乗り越えて、満を持しての創立となりました。そして、ロヨラはイエズス会の初代総長としても責務を全うしました。
ロヨラの活躍していた時代には「霊操」を広めることによって会員を増やすこと、イエズス会の会憲を完成させることが主な活動内容でしたが、現在に至っては教育や社会事業に至るまで、様々な社会貢献活動をする組織となりました。そして、会員数も2万人を数え、世界中に影響を与えるような宗教団体にまで成長を遂げたのです。
功績2「霊魂を鍛える修行『霊操』を発表」
「霊操」とはイグナチオ・デ・ロヨラによって定められたイエズス会の霊性修行のことで、霊魂を鍛えることによって神の意志を見出だすことが最終目標として定められています。ロヨラ以前にも魂の修行は存在しましたが、方法論としては確立されていませんでした。
ロヨラは、自身が神に近づく過程において、誘惑や疑悩を乗り越えることによって霊性を獲得していった経験を「霊操」として具現化し、この修行を世間にも広めていくことに意義を見出しました。現代でも「霊操」の方法は書籍として刊行されており、多くの人々が「霊操」に励んでいるのです。
功績3「三位一体、天地創造、イエスキリストを感じ取ることに成功」
ロヨラは精神修行を始めた初期の頃に、三位一体(ヤハウェ・イエス・聖霊)、天地創造の過程、イエスキリストの御身や人間性を垣間見ることに成功したのです。三位一体に深い信心を持っていたロヨラは毎日、それぞれのペルソナ(架空の肖像)に祈りを捧げていました。その結果として、ある日、楽器の三つの鍵盤の形で三位一体を見ることが出来たのです。
さらにその後、神が世界を創造した様を霊的な喜びに包まれながら目の当たりにすることにもなり、最後には教会において白く輝く複数の光線が空から降り注ぎ、その中にイエスキリストの姿を認めることになるのです。そして、キリストの人間性についてもロヨラの内的な眼によって確認することになるのでした。
ロヨラの名言
一度に一つの仕事しかしない人間の方が、むしろ誰よりも多くの仕事をする
一つのことを極めると専門性が高くなり、その人自身の市場価値が上がるために、仕事の価値もそれに応じて上がるのであるということでしょうか。あちこちに手を出して、そのどれもが中途半端で終わってしまうと、結局は大したことを成し遂げられないということを意味しているようです。
もし、材木が彫刻家の振り下ろすのみをよければ、いつまで経っても立派な彫刻にはなれないだろう。それと同じで、人間も神が与える試練をよけていれば、いつまで経っても立派な人間にはなれない。
苦難を乗り越えてこそ、世間に必要とされるような尊敬に値すべき人物になれるのだということを教えられているようです。逃げることは簡単だけれども、その試練も神様が与えてくれたものだから、甘んじて受けるのがよろしいということなのでしょう。
ロヨラにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「戦地を堂々と突っ切り、スパイと間違われ捕獲される」
戦争での負傷を機に回心したロヨラは巡礼するためにエルサレムへと出かけることになります。無一文で物乞いをしながら、なんとかエルサレムに到着したロヨラでしたが、フランチェスコ教会に聖地での永住を許されずに追い返されてしまうのです。
仕方なく、ヴェネチアを経由してバルセロナへの帰路に着いたロヨラでしたが、帰り道も大嵐に見舞われ、命からがら旅を続けるような状況となりました。その帰り道の最中に、皇帝軍とフランス軍の戦地があったのです。それとは知らずに戦地の真っ只中を突っ切ったロヨラはスパイと間違われて皇帝軍に捕虜として捉えられてしまいました。
しかし、皇帝軍の指揮官に面会し、話をすると、「この男は頭が狂っているから、持ち物を返して外へ放り出せ」と言われ、解放されることになるのでした。この後、フランス軍側の指揮官の元へも連行されましたが、同様に追い返されることになったのです。
都市伝説・武勇伝2「『霊操』が受け入れられず、度々投獄される」
ロヨラが疑悩を乗り越えていく上で霊性を身につけ、それを得る過程として「霊操」という魂の修行を考案しましたが、これを世間に広めていくのにはいくつかの困難を乗り越えなければなりませんでした。「霊操」が徐々に人々に浸透していくにつれて、その効果に対し、宗教裁判所が黙っていなかったのです。
ロヨラの「霊操」が人々に受け入れられると、その影響から巡礼をするために街を出ていく人が増えました。その上、「霊操」に影響を受けた若い婦人がベールをつけずにロヨラが滞在していた慈善病院に押し入るなどの小事件も起こるようになったのです。
これらの事項を危険とみなした宗教裁判所はロヨラを投獄し、監禁することを決めたのです。結局は42日間の監禁後、「勉学が終わる4年間、信仰について語らないこと」との指示が言い渡され、無罪放免となりました。
しかし、この後サマランカの地でも同様にドミニコ教会の神父たちの審問を受けることになり、再度投獄されることになりました。今度は22日間の監禁生活の後、「勉学が終わるまでの4年間は何が小罪で何が大罪かなどについて語ってはいけない」との判決が言い渡され、釈放されるのでした。
都市伝説・武勇伝3「血の気の多かった30歳の時、戦争で負傷した脚を切り落とす」
ロヨラは30歳になるまで、戦士として戦果を上げることを生き様としていました。1521年に起きたパンプローナの戦いでは明らかにロヨラ側の軍隊が不利な状況にも関わらず、フランスの大軍と戦うことを決意し、勇猛果敢に戦場へと飛び出していくのでした。
しかし、大軍相手にそう簡単に勝てるはずはなく、味方は大敗、ロヨラ自身も戦いの最中に銃弾が右足に命中し、重傷を負うことになってしまったのです。戦争自体はフランス軍の勝利で終わったため、ロヨラはフランス軍の救命隊に引き取られ、入念に手当を施されることになりました。
治療自体は半分成功で、足の骨を繋げることは出来たのですが、方向が悪く、膝の部分から骨が出っ張る形となり、左右の脚で長さが異なるように治癒してしまったのです。ロヨラは見栄えの悪さと足の長さの違いを気にかけ、出っ張った部分の骨を切断することを決心しました。
当時、麻酔の技術もそれほど発達していないため、切断のためには相当な激痛が予想されますが、それでも血の気の多かった若いロヨラは手術を懇願し、最終的には骨を切り落とすことに決めたのです。この影響で終生右脚は不自由なままとなりましたが、ロヨラ自身は満足したのでした。