ロヨラとはどんな人?生涯・年表まとめ【イエズス会設立の経緯やザビエルとの関係性も紹介】

ロヨラの年表

1491年 – 0歳「イグナチオ・デ・ロヨラの誕生」

バスク地方にて13人の末っ子として誕生

ロヨラの生まれた街ギプスコアにある公園「ギプスコア広場」

イグナチオ・デ・ロヨラは1491年にバスク地方にあるギプスコアの小貴族の館「ロヨラ館」で誕生します。13人の末っ子として生まれ、すぐに洗礼を受けることになり、イニゴと命名されました。のちにイグナチオ(イグナティウス)とつけるのはローマ時代に殉教した聖イグナティウスへの憧れからです。

1498年、7歳の時に母を失い、1506年、15歳になると、カトリック両王(イサベル一世女王とフェルナンド5世)の会計監査院長であるホアン・ベラスケス・デ・クエヤールの小姓として仕えることになりました。

1517年 – 歳「戦士として活躍し、ナバラ公の廷臣となる」

ナバラ公アントニオ・マンリケ・デ・ララの廷臣に

戦士として修行に明け暮れた20代の頃 名声を上げることがロヨラの目標であった

ロヨラは26歳になるまで、名誉を獲得することに躍起になっていました。戦争で功績を上げることだけを考え、武術の修行に励み、戦士として活躍していたのです。その業績が認められ、ナバラ公の廷臣として仕えることになりました。

戦争で勝つことが自分の名を挙げる唯一の方法と考えていたため、29歳の時に参加したナヘラ攻略戦でも戦利品を受け取ることはしませんでした。

パンプローナの戦いで重傷を負い、脚の骨を切断する決意をする

現在のパンプローナの街並み

1521年、パンプローナにてロヨラが城塞で待機している際に、膨大な数のフランス軍が攻めてきました。誰がどう見ても不利な状況にも関わらず、血気盛んなロヨラは迎え撃つことを決心するのです。そして、その戦火の中、一発の銃弾がロヨラの脚を捕らえ、重傷を負うことになるのでした。

最終的に味方側が大敗・降伏し、ロヨラ自身も大怪我を負うことになったパンプローナの戦いでしたが、敵のフランス軍は負傷したロヨラを丁重に扱い、治療を施してくれることになります。しかし、骨が正常な位置からずれ、膝の部分が出っ張ってしまったために、ロヨラはその部分を切断するように要求し、激痛に耐えながら、骨を切断することになるのでした。この治療の結果から、右足は終生不自由なままとなります。

1522年 – 31歳「勇猛な戦争の騎士からキリストの騎士へ」

ロヨラ館から旅立ち、マンレサへ

聖母マリアとイエスキリスト

負傷した脚の治療のために病床に伏している間、ロヨラはキリストと聖人の伝記を片っ端から読み尽くしました。聖人たちの伝記を読んでいるうちに、今まで名誉のためだけに生きてきた自分の人生を恥じ、聖人たちのように世俗的な思いを投げ捨てて、苦行に耐え、自己犠牲的な生き方をする人間になりたいと強く願うようになります。

この聖なる熱望を抱くようになるになったある日の晩、ロヨラは幼子イエスを抱いた聖母マリアの姿をはっきりと確認したのです。これ以来、今までの出世欲や肉欲を罪深い行為とみなすようになり、罪を償うために、モンセラートを経由してマンレサへと趣き、祈りと苦行の生活を始めることになりました。

多種多様な霊によって悩まされるように

天地創造のイメージ図 ロヨラは三位一体、天地創造、イエスキリストを順番に示現

聖なる生活を営むようになったものの、ロヨラに襲いかかってくる多種多様な霊によって内的動揺を感じ、激しい疑脳に悩まされるようになります。しかし、これらの疑悩を乗り越えていくに連れて、自らの霊性に気がつくようになり、のちの「霊操」が誕生するに至るのでした。

この期間中に三位一体、天地創造、イエスキリストの姿、そしてその人間性の示現を目の当たりにすることにもなります。

1523年 – 32歳「エルサレム巡礼の旅へ」

バルセロナを発し、ローマ、ヴェネチアなどを回ってエルサレムへ

聖地エルサレムの風景

ロヨラはエルサレムを巡礼するために、バルセロナを発つことを決心し、そのまま、カエタ、ローマ、ヴェネチア、キプロス島を経てエルサレムへと向かうのでした。物乞いだけで旅をしていく決心をしたため、貧困、大嵐などの苦難にも遭うことになりましたが、聖地にたどり着けるかどうかは神の意志によるものだと信じて旅を続けたのです。

エルサレムに到着したことに感動したロヨラでしたが、フランチェスコ会の管区長に聖地での永住を許されず、やむを得ずヴェネチアへと向かうことになります。

交戦中の皇帝軍とフランス軍の間を知らずに進み、捕獲される

戦争のさなかを横切ってしまったロヨラは捕獲されるも、すぐに釈放される

大嵐の中、なんとかヴェネチアへとたどり着いたロヨラはその後、バルセロナへと戻ることになりました。その帰還の最中に皇帝軍(カルロス1性とカール5世)とフランス軍(フランソワ1世)が戦争をしているところに遭遇し、気づかないままに両陣営の間を闊歩したところ、スパイと勘違いされ、捕虜として捕らえられたのです。

しかし、軍の指揮官から頭の狂った変人とみなされ、そのまま追い返されることになりました。釈放されたロヨラはそのままバルセロナへと帰還するのでした。

1525年 – 34歳「『霊操』を世間に広めるために、語学などの勉学に励む日々」

ラテン語や人文学を勉強する

霊操を世に広めるためにラテン語を学んだ

ロヨラの考案した霊的修行である「霊操」を世間に広めるためにはラテン語を学ぶことが必要になりました。そのため、バルセロナへと帰還した直後からラテン語の勉強を開始することになり、同時に人文学も学ぶことになります。

この勉強の期間に関しては1532年に文学士、1534年に哲学修士の資格を得るまで続きました。 ロヨラは勉強が人間全体について知り得る唯一の方法だと考え、節欲と苦行を伴うものであることを認識し、集中して取り組むことを心がけました。

人々に「霊操」を普及し、宗教裁判所に訴えられ、のちに投獄される

霊操により神の意志に近づけることを説いた

ラテン語などの勉強をする傍らで、かねてからの目標でもあった「霊操」を人々に普及していくことになりました。しかし、「霊操」が徐々に世間に浸透するにつれ、巡礼をするために町から出ていく人が増えていったのです。さらには「霊操」に影響を受けた若い婦人がベールをつけずにロヨラが滞在していた慈善病院に押し入るなどの小事件も起こるようになりました。

このことを危惧した一部の人が宗教裁判所へと訴えを起こしたため、警官がロヨラに対し尋問を施すために、彼を投獄したのです。最終的には42日間の監禁後、「勉学が終わる4年間、信仰について語らないこと」との指示が言い渡され、無罪放免となりました。

ドミニコ教会でもロヨラは監禁される

釈放されたロヨラはサラマンカへ旅立つことになりましたが、そこでもドミニコ教会の神父たちに審問を受けることになります。そして、再び投獄されたのです。22日間の監禁生活の後、「勉学が終わるまでの4年間は何が小罪で何が大罪かなどについて語ってはいけない」との判決が言い渡され、釈放されるのでした。

1529年 – 38歳「聖バルバラ学院へ通うことに、ザビエルらとの会見」

パリのモンテアグ学院を経由して聖バルバラ学院へ

聖バルバラ学院の記念切手 ここでザビエルと出会うことになる

2度の投獄から釈放されたロヨラは勉強を継続するために、パリのモンテアグ学院に通い、その後聖バルバラ学院へ進学することになりました。そして、この時期にペラルタ、カストロ、アマドールに霊操を授け、3人を回心させることに成功します。

さらに、聖バルバラ学院の寄宿舎で一緒になったペトロ・ファーベルとフランシスコ・ザビエルの2人にも霊操を施し、2人を回心させたのです。彼らは霊操を通じて神への奉仕に献身するようにもなりました。

勉学を修め、スペインへと帰郷

1532年に文学士、1534年に哲学修士、1535年に哲学博士の資格を取得したロヨラはスペインへと帰郷することになります。この勉学の期間中には前述の5人に加え、ライネス、アルフォンソ・サルメロン、ロドリゲス、ボバリディリアに霊操を授け、回心させることに成功しました。

モンマルトルの丘から一望したパリの風景

そして、1534年の8月15日(聖母の祝日)に、回心したうちの6人の同志たち(ペトロ・ファーベル、フランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバリディリア、シモン・ロドリゲス)とともにモンマルトルの丘にある礼拝堂を訪れ、清貧と貞潔を永遠に誓う誓願を立てたのです。「今後、この7人は同志として活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする、教皇の望むところであれば何処へでも赴く」というのが誓願の主な内容でした。これがのちのイエズス会の元となるのです。

翌年1535年には故郷のスペイン・バスク地方へと帰還し、霊操に務めることになるのです。一方で、まだまだ勉強について物足りない部分もあったため、再度勉学の環境を求めて旅立つことも計画に入れるのでした。

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