1538年 – 47歳「ローマにて初のミサを捧げる」
スペインへ帰郷後、ヴェネチアを経てローマへ
スペインへと帰ったロヨラは故郷で霊操を広めていきましたが、神学を学ぶために再びヴェネチアへと旅立ちました。ヴェネチアの地でも勉学に励みつつ、霊操を授ける日々を送りましたが、ある日、聖地巡礼をしても良いという許可が下りたため、エルサレムへと向かう準備をします。しかし、当時、バルバロスという海賊が地中海を席巻していたため、聖地へと行き着く船が長期間出港しないことを知り、行き先を変更してローマへと向かうことになったのです。
聖地巡礼の期間を一年ほど延期して1538年にローマに至ることになりましたが、ロヨラはここでも審問を受け、告訴されることになってしまうのです。最終的にはパウロ3世に判決を申請し、無罪放免となりましたが、巡礼の旅は中断されることとなりました。
キリスト教でもっとも重要な儀式の一つであるミサを捧げる
ロヨラは1536年6月にミサを受けることを決めていましたが、塾考して、一年半の間ミサを捧げないことを決心したのです。その理由は、ミサがキリスト教においてもっとも重要な儀式であることを認識し、自らをミサに向けて準備させることが必要と考えたからです。
延期した一年半の間に、神がロヨラをイエスキリストと同じ位置に置いてくださることを聖母に懇願することを徹底しました。そして、1538年12月25日、ようやく初ミサを捧げることになったのです。
1539年 – 48歳「イエズス会の創立」
イエズス会の創立に向けて、会憲草案などの準備に取り掛かる
ミサを終えたロヨラはイエズス会の創立に向けて、同志たちと準備に取り掛かりました。従順の誓願をモンマルトルの誓願に加え、イエズス会の会憲草案の作成を開始、パウロ3世による許可を得るところとなりました。
しかし、草案を認可するための大教書「レジミニ・ミリタンティス・エクレジェ」の審査を、草案反対の立場を取っていたグイディッチオーニ枢機卿が担当することになり、イエズス会創設へ向けての暗雲が漂うようになるのです。
イエズス会の公認、そして、創立
1540年、不安視されていた大教書の審査を通り抜けることができ、晴れてイエズス会が公認されることになりました。但し書きとして四誓願の盛式誓願者の定員が60人に制限されることが盛り込まれましたが、この条件を飲み込み、イエズス会が創立されることになったのです。
そして、1541年、イグナチオ・デ・ロヨラはイエズス会の初代総長となりました。それまでに3回ほど総長としての職に就くことを断っていたのですが、最終的には周囲の推薦に折れて受託することになったのです。
1542年 – 51歳「『会憲』の執筆とイエズス会の活動拡大」
回心した婦人のために「聖マルタの家」を開設
イエズス会が発足すると、手始めにユダヤ人の改宗に力を入れ、改宗したユダヤ人のための学院設立を行いました。また、霊操によって回心した婦人たちのために「聖マルタの家」を開設し、それに伴って、若い女性たちを危険から保護する事業も同時に展開していくことになります。
一方で、1547年には教皇書簡にて「いかなる女性にもイエズス会への従順のもとで生活することを禁止する」との制限が設けられることにもなりました。
会憲の執筆に精を出す
1540年にイエズス会が創立されてから、1552年の会憲の公布に至るまでには足かけ12年もの歳月が流れています。この期間、ロヨラは会憲の執筆に精を出しました。1543年に「宣教」の部、1544年に「清貧」の部など、長時間をかけて慎重に執筆を進めていったのです。
1548年にはロヨラが長年行ってきた「霊操」がパウロ3世の教皇書簡によって認められ、世間一般に推奨されるようになりました。そして、1550年には教書「エクスポシト・デビトウム」にてイエズス会の「会憲」が公認されることになり、1552年、「会憲」の公布が決定するのでした。
1553年 – 62歳「死期の迫ったことを悟り、『自叙伝』の刊行を決意」
重病を患い、死期の訪れを感じるように
1553年6月にロヨラは重病を患い、健康の不安を抱えるようになりました。この病気をきっかけに自らの死期が近いことを悟ったため、今までの自分の人生を後世に語り継ぐために、自叙伝を刊行することを決意します。カマラ神父に聞き手に回ってもらい、1553年の8月末から記録を開始しました。
残りの時間は出来上がった「会憲」の修正や管区の設立などに力を入れていきました。管区に関しては1546年にポルトガル管区を作ったのを皮切りに、スペイン、インド、イタリア、アラゴン、ブラジル、フランス、ドイツに設立したのです。
「道の聖母教会」の建設をミケランジェロに依頼
イエズス会は1553年には会員が1000人にも達するようになりました。特に、スペイン、ポルトガル、インドなどで盛式誓願者の数が増加し、スペインには新たに3つの管区を増設することになったのです。
1554年には再び容体が悪化したロヨラでしたが、「会憲」の推敲や総長の実務をかろうじてこなしていき、教会の親切も計画しました。そして、「道の聖母教会」名付けた教会の建設を、「ダビデ像」で有名なミケランジェロに依頼することになったのです。
1556年 – 65歳「ロヨラが帰天、のちに列福・列聖される」
「自叙伝」を書き上げた一年後に帰らぬ人に
1555年には病気のために延期していた「自叙伝」の口述を再開し、10月に記録し終えることに成功しました。今後のイエズス会のために、ナダールを総長代理として選出したり、総長補佐や総代理を複数選出したりと、自分の亡き後でもスムーズに事が運ぶようにと万事を準備していきます。
そして、1556年6月、高熱と苦痛により病床に伏すようになり、全ての権限を部下に任せるようになりました。7月に入るとさらに病態は悪化し、7月31日、臨死状態を聞きつけた教皇の見舞いも間に合わず、ロヨラは帰天することになるのでした。
ロヨラはローマのジェズー教会に埋葬され、1609年に列福(徳と聖性が認められ、聖人に次ぐ福者の地位に上げられること)、1622年にはフランシスコ・ザビエルとともに列聖(教皇の宣言により聖人として認められること・この時の教皇はグレゴリウス15世)されることになりました。
ロヨラの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
霊操
イグナチオ・デ・ロヨラが考案した、魂を活性化させ、神の意志との直接的な接触を目指す「霊操」について記された指南書となっています。自由と主体性を重んじる修行のスタイルは現代でも多くの人々から支持されています。「霊操」に興味がある方は必読です。
ある巡礼者の物語
イグナチオ・デ・ロヨラがカマラ神父に対して口述した自叙伝が収められた一冊です。30歳の時に聖人たちの伝記を読んでから、イエズス会を設立するまでの経緯を、自身の体験談を踏まえて記述されています。ロヨラの生涯、イエズス会の成り立ちについて知りたい方にはおすすめです。
聖ロヨラ
ロヨラの生きていた時代や土地柄、フランシスコザビエルとの関係性などについて記された書籍となっています。著者がヨーロッパへ渡航した際に訪れたロヨラの遺跡などの印象もありありと描かれており、実際の体験談と合わせてロヨラの生涯に迫ることのできる一冊です。
ロヨラについてのまとめ
今回はイグナチオ・デ・ロヨラについて紹介しました。
ロヨラは若い頃、名誉を求める血気盛んな騎士であったにも関わらず、聖人たちの伝記に触れてからは自己犠牲的な生き方に重きを置くようになりました。そして、それ以後、徹底して「霊操」を広めることに尽力し、同じ思想を持った会員を増やすためにイエズス会を設立するのでした。今なお多くの会員がいるイエズス会は社会に大きく貢献する組織として重宝されているのです。
この記事をきっかけにさらにロヨラに興味を持っていただけると幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。