堀辰雄(ほり たつお)は、昭和初期~中期に活躍した小説家です。代表作『風立ちぬ』は、2013年にスタジオジブリでアニメ映画化されました。もっとも、堀の「風立ちぬ」とは内容は異なっていて、アニメ映画の方は堀辰雄の人生や作品世界に宮崎駿監督が影響を受け、そこから構想が練られていったものです。
堀辰雄の小説は、ヨーロッパ文学の影響を大きく受けています。「風立ちぬ」の冒頭にはフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一部が登場しますし、1933年に書かれた「美しい村」はマルセル・プルーストに触発されたものとされています。堀は、影響を受けたヨーロッパ文学を純化して、美しくて儚い物語を生み出しました。
堀辰雄は48年という短い人生で、「生と死」「愛」をテーマに執筆を続けました。彼の人生を追っていくと、多くの人に愛されていたこと、そして絶えず病魔が付きまとっていたことがわかります。そのような堀だからこそ、「生と死」「愛」という人間全体にとっての命題のようなテーマを追究していけたのだな、と感じます。
この記事では、スタジオジブリ映画を見る準備として「風立ちぬ」を読み、その美しい世界観のとりこになった筆者が、堀辰雄の生涯や功績、作品をご紹介します。
この記事を書いた人
堀辰雄とはどんな人物か
名前 | 堀辰雄 |
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誕生日 | 1904年12月28日 |
没日 | 1953年5月28日(享年48歳) |
生地 | 東京府東京市 |
没地 | 長野県軽井沢町 |
配偶者 | 堀多恵子 |
埋葬場所 | 東京都多磨霊園 |
堀辰雄の生涯をハイライト
堀辰雄は1904年12月28日、東京・麹町に生まれました。17歳で第一高等学校に入学すると文学に目覚め、室生犀星、芥川龍之介という2人の師を得ます。21歳で東京帝国大学に入学し、1927年に『ルウベンスの偽画』でデビューしました。
ところがこの年、師と仰いでいた芥川龍之介が自殺してしまいます。高校時代に肋膜炎を患い、身体の弱いところのあった辰雄はこのころから病に伏せることが多くなりました。芥川龍之介らをモデルとした小説『聖家族』を書き上げた後、大量の血を吐いて生死の境をさまよいます。
病身でありながらも文学活動は続け、1930年代には精力的に作品を発表しました。1933年、療養のため軽井沢を訪れていた辰雄は、『風立ちぬ』のヒロインのモデルとなる矢野綾子と出会います。翌年2人は婚約したのですが、綾子は結核を患っていて1935年の12月に亡くなりました。
翌年に『風立ちぬ』を書き上げた辰雄は、1938年に加藤多恵と結婚しました。軽井沢を中心に、信濃追分や鎌倉、東京などを行き来しながら、自分の体験にもとづいた小説や日本古典文学に題材を得たものなど多くの作品を執筆しています。1944年頃から体調を崩し始め、1953年に49歳で亡くなりました。
自身の経験にフランス文学と日本古典の要素をプラスした作風
堀辰雄は、私小説が主流となっていた昭和初期の文壇に、意識的にフィクションを取り入れることで独自の文学世界を確立した作家です。
「私小説」とは、作者自身が体験したことをほとんどそのまま作品にした小説のことです。日本では「自然主義文学」と同じような意味として使われ、田山花袋や島崎藤村がその代表者となりました。今でこそ「小説」といえば「フィクション」というイメージですが、私小説が全盛期の時代は作家の生活こそが作品となったのです。
堀辰雄の『聖家族』や『風立ちぬ』は確かに自身の経験をモデルにしていますが、意識的にフィクションを取り入れることで「私小説」ではない「小説」となっています。そのために辰雄はフランス文学の「心理主義」を積極的に取り入れ、また日本の古典文学からも題材をとりました。辰雄自身の経験と「心理主義」、そして古典文学の素養が彼独自の世界観を生み出しているのです。
堀辰雄の2人の師
堀辰雄には師と仰いだ2人の作家がいます。室生犀星と芥川龍之介です。辰雄は高校在学中の1923年にこの2人の師と出会い、大きな影響を受けています。
詩人で小説家の室生犀星は、辰雄の母校・東京府第三中学校の校長・広瀬雄が紹介してくれました。広瀬と犀星は家が隣で交流が深かったのです。辰雄はそのころ文学に目覚めたばかりで、犀星との出会いは彼を文学の道に大きく引っ張っていたのだと思います。
犀星が辰雄に紹介したのが芥川龍之介です。芥川は最初から辰雄を気に入り「自分の信じた道をどんどん進みなさい」「私はあなたと安心して芸術の話ができる気がする」というような手紙を書き送っています。辰雄を「辰っちゃんこ」と呼んで可愛がり、軽井沢で自分の恋人・片山廣子(筆名・松村みね子)やその娘・総子らと遊んだこともありました。
兄弟のような関係だったのでしょう。芥川が自殺した後、辰雄は大きなショックを受け、その年の冬に肋膜炎を再発するなどしています。けれども芥川の甥・葛巻義敏とともに「芥川龍之介全集」の刊行に向けて尽力しました。
軽井沢が大好きだった堀辰雄
堀辰雄が初めて軽井沢を訪れたのは関東大震災が起こった次の年のことです。当時金沢にいた室生犀星のもとを訪れた帰りに、芥川龍之介のいた軽井沢に立ち寄ったことがはじまりでした。
当時の軽井沢は「日本の西洋」と呼ばれていたほどヨーロッパ人が多い土地で、どこか日本離れした雰囲気がありました。辰雄は事あるごとに軽井沢を訪れ、持病であった結核の療養先にも選んでいます。滞在していることが多かったためか、『美しい村』など彼の作品の多くは軽井沢を舞台にしています。
堀辰雄と2人の女性
1933年、軽井沢に滞在していたとき堀辰雄は矢野綾子という女性と知り合いました。綾子は油絵を描くのが好きな女性で、辰雄の小説『風立ちぬ』のヒロイン・節子のモデルとなった人です。2人は翌年に婚約したのですが、結核を患っていた綾子は1935年の12月に亡くなってしまいます。
最愛の婚約者を亡くした辰雄は、悲しみをばねに『風立ちぬ』を書き上げました。完成の翌年に信濃追分で出会ったのが後に妻となる加藤多恵です。
実は辰雄と多恵の仲をとりもったのは亡くなった綾子の父といわれています。綾子は遺言で父に「辰っちゃんにいい人を見つけてあげて」と頼んでいたのです。辰雄と多恵は室生犀星の媒酌で結婚、どこにでも2人で行くような仲のいい夫婦だったといいます。