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堀辰雄ってどんな人?功績・年表まとめ【風立ちぬなど代表作も紹介】

堀辰雄の功績

功績1「最先端のヨーロッパ文学を積極的に取り入れた」

フランスの新心理主義の代表者
マルセル・プルースト

フランス文学に造詣の深かった堀辰雄は、フランスを中心に起こった「心理小説」そしてその発展形の「新心理主義」の文学を自分の作品に取り込みました。「新心理主義」とは、20世紀のはじめに精神科医・フロイトが起こした「精神分析学」をもとに、意識の流れや心のうちでのつぶやきを表現する手法で深層心理を描こうとした文学の流派です。

フランスでは辰雄もよく読んだという『失われた時を求めて』のマルセル・プルーストが代表者となっています。日本では堀辰雄のほかに伊藤整などが取り入れて、川端康成や横光利一ら「新感覚派」の作風を深めました。

功績2「日本古典文学を作品の題材にした」

藤原道綱母の『蜻蛉日記』も題材にした

フランス文学の最先端を吸収しながら、堀辰雄は日本の古典文学、特に平安時代の王朝文学に興味をもっていました。藤原道綱母の「蜻蛉日記」を題材にした『かげろふの日記』という作品もあり、また亡くなる直前まで『伊勢物語』を自分の作品に取り入れたいと計画していました。

辰雄の『ほととぎす』『曠野』などの作品にも王朝文学の影響が見られます。また、民俗学者・折口信夫の思想やオーストリアの詩人・リルケの影響もあり、空間や時代を超えてさまざまなものからインスパイアを受けていることがわかります。

功績3「『生と死』『愛』というテーマを書き続けた」

2つのテーマに真摯に向き合った

堀辰雄の小説はほとんどが「生と死」「愛」がテーマになっています。どちらかというと重いテーマですが、辰雄の文学はこれらをうまく書いてしまおうとはせず、誠実に、真摯に向き合って作品にしていると感じます。2つのテーマをベースに、先ほどご紹介した「新心理主義」や日本古典文学に影響が混ざりあったものが堀辰雄の文学です。

堀辰雄の小説は確かに恋愛小説の一面もありますが、よくあるラブストーリーと思って読み始めると難しいものがあります。生きることや人間の宿命について考えたいとき、小説に哲学的なもの求めているときなどにおすすめです。

堀辰雄の名言

風立ちぬ、いざ生きめやも。

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』の「序曲」という章に登場する一文です。フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの『海辺の墓地』という詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」を辰雄が日本語訳したもので、このフランス語の原文は『風立ちぬ』の冒頭に引用されています。

古語の正しい用法にしたがうとこの日本語訳は間違っているともいわれますが、生きなければならないという意志と不安が一言で言い表された名文です。

幸福の思い出ほど、幸福を妨げるものはない。

『風立ちぬ』の「冬」という章に出てくる一文です。作品中では「何かの物語で読んだ」とされて登場する文なのですが、この「何かの物語」はフランスの小説家、アンドレ・ジッドの『背徳者』ではないかといわれています。『風立ちぬ』の「冬」はそれまでと打って変わって幸せを描いた描写が少ない章なのですが、そのことをこの一文はよく表しているように思えます。

自分の先生の仕事を模倣しないで、その仕事を終わったところから出発するもののみが、真の弟子であるだろう。

堀辰雄は芥川龍之介を師と仰いでいました。だからこそ芥川の自殺に大きな衝撃を受けたのですが、この言葉はそのような2人の関係性を思い起こさせます。自殺によって終わってしまった芥川の仕事をただ真似するのではなく、その「終わりから始める」という意志が感じられます。

堀辰雄にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「芥川の恋人の娘・総子との恋」

芥川の恋人・片山廣子

1924年の夏、軽井沢の「つるや旅館」では芥川龍之介をはじめ、堀辰雄や室生犀星、芥川の恋人の片山廣子(松村みね子)とその娘・総子らが集っていました。当時19歳だった辰雄は、17歳だった片山総子に恋をします。そのときのことは辰雄のデビュー作『ルウベンスの偽画』や『聖家族』のモチーフとなりました。

けれども小説の題材にしたことで、総子は辰雄のことを憎み始めます。「堀辰雄との噂のせいで縁談がことごとくダメになる」「堀はひどい人間だ」と訴え、文芸春秋社に押しかけたり、母・廣子も「ゴシップを言いふらさないでほしい」と文学関係者のもとをまわったりしています。辰雄自身は沈黙を守っていたのですが、人から憎まれたことが身体に障ったのか、この年も軽井沢へ療養に訪れています。

堀辰雄の生涯を追ってみると、人から良く思われたり好かれたりすることは多くても、憎まれたという話はあまり目にしません。また、1924年の夏は亡くなった芥川とも楽しく過ごした美しい思い出だったはずで、そのときのことがきっかけで憎まれてしまったというのは相当心苦しい経験だったと思います。

堀辰雄の年表

1904年 – 0歳「誕生」

堀辰雄が生まれたあたりには
現在「平河町森タワービル」が建っている

複雑な生い立ち

堀辰雄は1904年12月28日に東京・麹町に生まれました。父は堀浜之助という広島藩の士族、母は西村志気という女性なのですが、少し込み入った事情があります。父の浜之助は広島に妻・こうがいて、子どもがいなかったので、辰雄は浜之助とこうの息子とされたのです。

辰雄は2歳まで堀家で育ち、もちろん実の母・志気が育てていたのですが、東京の堀家に正妻・こうが上京することになりました。辰雄を手放したくなかった志気は家出し、向島にある妹夫婦の家に居候を始めます。そして2年後、向島の彫金師・上條松吉と結婚しました。

養父となった松吉はさっぱりとした人で辰雄に愛情を注いで育ててくれたことから、辰雄は松吉が亡くなるまで実の父でないとは知らなかったといいます。辰雄の戸籍は堀家のままだったので、実の父・浜之助が亡くなった後、辰雄が成人するまで恩給(遺族年金のようなもの)が支払われました。このお金は辰雄の学費に当てられたそうです。

1921年 – 17歳「第一高等学校に入学」

後にロシア文学者となる神西清と友人になる

文学に目覚める

1917年に牛島小学校を卒業し東京府第三中学校に入学した辰雄は、とても優秀だったため普通5年かかるところを4年で卒業し、第一高等学校の理科乙類に入学しました。数学者を目指しての進学だったのですが、飛び級してしまったことで肝心の数学が分からなくなってしまい、その道は断念しました。けれども、辰雄は高校時代に文学に目覚めます。

その手引きをしたのが、高校で友人となった神西清(じんざい きよし)です。神西に萩原朔太郎の詩集『青猫』を見せられた辰雄はすっかり心を奪われ、詩を書くようになりました。2人は生涯を通して仲が良く、辰雄が亡くなった後に出版された全集は神西の尽力あってのものだったといわれています。

1923年 – 19歳「2人の師との出会い」

第一高等学校時代の堀辰雄

室生犀星と芥川龍之介に知り合う

1923年の5月、辰雄は第三中学校時代の校長・広瀬雄から室生犀星を紹介されました。このとき室生は34歳、前の年に息子を失くしたこともあり、辰雄に父親のような優しさをもって接してくれました。辰雄はこの年の夏に室生夫妻について初めて軽井沢を訪れ、その後も軽井沢を愛してことあるごとに訪れています。

この年、辰雄を芥川龍之介に引き合わせたのも室生でした。翌年の夏には室生と芥川のいる軽井沢を訪れ、みんなでドライブなどして楽しい時間を過ごしています。芥川は辰雄を「辰っちゃんこ」と呼び、弟のように可愛がっていました。

関東大震災で母を失う

関東大震災直後の東京

1923年9月1日、関東大震災が起こり10万5千人もの人々が亡くなりました。堀辰雄は隅田川に避難したのですが、母・志気が水死してしまいます。また、辰雄自身も隅田川を泳いで母を探し回ったうえ、死別のショックもあって冬になって肋膜炎を発症し、高校を休学しています。

1925年 – 21歳「東京帝国大学に入学」

1933年版『ルウベンスの偽画』

『ルウベンスの偽画』でデビュー

1925年、堀辰雄は東京帝国大学文学部の国文科に入学します。室生犀星の家に出入りして小説家や文芸評論家と知り合うかたわら、第一高校の同期だった小林秀雄らの同人誌『山繭』に寄稿するなど、小説家を目指して活動していました。

1927年には『ルウベンスの偽画』を発表しました。この作品の完成稿が3年後に同人誌『作品』創刊号に掲載されたので堀はこの『ルウベンスの偽画』でデビューしたことになります。この作品は1925年の夏に3か月間軽井沢に滞在したことをモチーフにしていて、ヒロインはそのとき一緒に過ごしていた芥川龍之介の恋人の娘・片山総子がモデルです。

芥川龍之介が自殺

1927年7月24日、芥川は服毒自殺を遂げた

『ルウベンスの偽画』を発表した年の7月、兄のように慕っていた芥川龍之介が自殺してしまいます。辰雄は大変ショックを受けながらも、芥川の甥・葛巻義敏とともに「芥川龍之介全集」を出すために忙しい日々を送りました。しかし、1928年の冬に心労からか風邪をこじらせ、再び肋膜炎を患いました。

『聖家族』出版

1929年、東京帝国大学を卒業した堀辰雄は翌年に『聖家族』を出版します。この作品は、芥川の死に衝撃を受けた辰雄の身辺の体験を作品化したもので、小説家・堀辰雄の出世作となりました。けれども、あまりにも真に迫ってためか、作品の登場人物のモデルであり、芥川の恋人であった片山廣子とその娘・総子から距離を置かれるようになってしまいます。

1933年 – 29歳「矢野綾子と出会う」

矢野綾子と出会ったときに辰雄が滞在していた
「つるや旅館」の現代の姿

軽井沢での出会い

1933年の6月から9月にかけて、堀辰雄は作品を執筆するために軽井沢の「つるや旅館」に滞在します。そのときに出会ったのが『風立ちぬ』のヒロイン・節子のモデルとなった矢野綾子です。彼女と出会った時期のことは中編小説「美しい村」にも描かれています。

翌年、辰雄が信濃追分に滞在していたときに、綾子も家族とともに軽井沢に来ていたため、辰雄も何度か彼女のもとを訪れています。このころ、辰雄は「決定版 芥川龍之介全集」の編集や、以前立ち上げた文芸誌『四季』の復刊に向けての活動で忙しくしていました。そのようななか、1934年の12月に2人は婚約しました。

婚約翌年に綾子が死去

2人が滞在していた富士見高原療養所

元々結核の療養のために軽井沢に滞在していた綾子ですがあまり回復せず、1935年に富士見高原療養所の医師から入所するように勧められます。富士見高原療養所は結核の治療を目的としたサナトリウムで、辰雄自身も体調がよくなかったために2人で入所することになりました。

6月に2人で入所し、辰雄は秋には回復したのですが綾子はなかなかよくなりませんでした。後に『菜穂子』という小説になる作品の執筆に苦しみながら、辰雄は綾子のそばで過ごしました。けれども12月6日、綾子は24歳の若さで亡くなりました。

1936年 – 32歳「『風立ちぬ』を執筆」

堀辰雄が宿泊していた「油屋」

『風立ちぬ』を書き始める

婚約者・綾子と死別した翌年の1936年から、堀辰雄は『風立ちぬ」を書き始めました。この小説は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」という5つの章で構成されているのですが、まず「風立ちぬ」という章が書かれています。続いて「冬」「春」と書かれました。

けれども、最終章はなかなか書かれませんでした。この年に辰雄は室生犀星に「『風立ちぬ』に連なる『鎮魂曲』のようなものを書きたい」と書き送っているので、現在の完成形の構成になることは計画していたはずです。『風立ちぬ』を完成させるため、辰雄は寒さの厳しい信濃追分で冬を越したのですが、この年のうちには完成しませんでした。

最終章『死のかげの谷』を書き上げる

川端康成の別荘に続くこの道は「幸福の谷」と呼ばれている

1937年の冬、堀辰雄はついに『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」を書き上げました。この年、11月に辰雄は信濃追分の「油屋」で『かげろふの日記』という作品を書き上げ、原稿を送るために軽井沢に行きました。その以前から親しかった川端康成の別荘に1泊して信濃追分に戻ったのですが、なんと滞在していた「油屋」は火事で全焼してしまっていました。

仕事のノート類など失ってしまった辰雄はかなり落ち込んだようですが、その冬に軽井沢の川端康成の別荘を借り、そこで「死のかげの谷」を書き上げました。『風立ちぬ』が完成したことがよほど嬉しかったのか、そのころの手紙に「火事でいろいろなものを失ったけれども、この一編が書けたからもうそれほど惜しくはない」と書いています。

1938年 – 34歳「加藤多恵と結婚」

加藤多恵との結婚

室生犀星の媒酌によって結婚

1938年、堀辰雄は前年に「油屋」で出会った加藤多恵と結婚しました。実は、この結婚には亡くなった婚約者・綾子が大きく関係しています。綾子は亡くなる前に、自分の父に「辰っちゃんは本当にいい人だから、どうか奥さんを見つけてあげてね」と言い残し、その遺言どおり綾子の父は辰雄と多恵の仲をとりもったのです。

誰の気持ちを考えても切なくなってしまうエピソードですが、辰雄が人に好かれる優しい人物であったことがよくわかります。辰雄と多恵は室生犀星夫妻の媒酌によって4月17日に結婚式を挙げました。

軽井沢を中心に各地を転々とする

亡くなった婚約者・綾子の家族とも堀夫妻は親しかった

この頃の堀辰雄は活動的で、東京・杉並の家を中心に軽井沢や信濃追分、鎌倉などを転々としています。血を吐いたり入院したりはするのですが、元気なときは友人らとハイキングなども楽しんでいます。辰雄の作品に現れる自然の描写の豊かさは彼自身が山や森の中にいることを好んだからなんだな、と思わされます。

また、友人や後輩が訪ねてくることも多かったようです。第一高等学校時代からの友人である神西清や小林秀雄をはじめ、三好達治や立原道造などとも親しくしていました。民俗学者・折口信夫(釈迢空)の思想に惹かれ、講義を聞くこともありました。

1944年 – 40歳「体調を崩し始める」

1951年にはほぼ寝たきりの生活となった

疎開の準備中に喀血

第二次世界大戦の最中である1944年、堀夫妻も疎開の必要を感じて信濃追分に家を見つけたのですが、引っ越しの準備をしているときに辰雄は血を吐いてしまい、2か月の絶対安静を命じられます。このころからだんだんと寝たきりでいることが多くなっていきました。

辰雄は病床でも本を読み、書きたいもののことを考えていました。読むのはやはりフランス文学が多く、マラルメやヴァレリー、リルケの詩を読んでいたようです。その一方で日本の古典『伊勢物語』を作品化したいという気持ちがあり、いろいろな人への手紙にその計画を書いていますがこの仕事が完成することはありませんでした。

1953年 – 49歳「信濃追分の自宅で亡くなる」

晩年住んでいた家は堀辰雄文学記念館にある

結核で死去

1953年5月28日、堀辰雄は信濃追分の自宅で亡くなりました。6月3日には東京・増上寺で告別式が執り行われ、川端康成が葬儀委員長を務めました。

亡くなった後、川端康成や神西清ら5人を編集委員として、新潮社から堀辰雄全集が出版されました。また、妻の多恵は「堀多恵子」という筆名で辰雄に関する随筆を多く残しています。

堀辰雄の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

羽ばたき Ein Marchen

堀辰雄の少年文学『羽ばたき Ein Marchen』を、漫画家の鳩山郁子が美しく耽美的にコミカライズしました。文筆家・長山靖生による、堀辰雄の生きた時代とこの作品の世界観の解説も収録されていて、『羽ばたき Ein Marchen』という作品をいろいろな角度から楽しめる1冊になっています。

堀辰雄の周辺

堀辰雄の妻・多恵子が1994年10月から1年間、産経新聞に連載したエッセイです。堀辰雄と友人らのエピソードが妻の目から優しい筆致で描かれています。辰雄がどんなに周囲に愛された心の優しい人物であったかがよく伝わってくる1冊です。

おすすめの動画

風立ちぬの原作小説との違いを解説。哲学的な意味やラストも考察

哲学系Youtuber・ネオ高等遊民さんが、堀辰雄の『風立ちぬ』とスタジオジブリの『風立ちぬ』を比較しながら解説している動画です。ネオ高等遊民さんはどちらの作品も大好きらしく、愛情と熱意に満ちた解説が聞けます。後半はかなり高度な哲学の話になりますが、ぜひ聞いてみてください。

おすすめの映画

風立ちぬ(2013年)

スタジオジブリ作品『風立ちぬ』は、堀辰雄の『風立ちぬ』をそのままアニメ化したものではありません。けれども、堀辰雄の作品世界や生涯が深く理解されているうえ、零戦設計者・堀越二郎の生涯を織り込むことによって、彼らの生きた時代がどのような時代だったかを表現しています。

この映画を観た後に堀辰雄の作品を読んでみると、2つの作品の世界観が混ざりあってより深い読書体験・映画体験が得られるはずです。

風立ちぬ(1976年)

山口百恵と三浦友和が主演を務めた実写映画です。『風立ちぬ』という小説は1954年にも映画化されているのですが、現在比較的手に入りやすいのは1976年版でしょう。時代背景を戦時下に移し、さらに婚約者となる前の段階のストーリーをオリジナルでプラスするなど、小説を知らなくても楽しめる内容となっています。

関連外部リンク

堀辰雄についてのまとめ

小説家・堀辰雄の生涯や功績をご紹介してきました。

辰雄の生涯には、辛い「死別」が何度もありました。それは多かれ少なかれ誰しもがそうなのですが、辰雄はその辛さ、悲しみをあるときは『聖家族』として、またあるときは『風立ちぬ』という作品として昇華しました。誰でもできることではないと思います。

この記事を読んでくれたあなたが、堀辰雄の作品に触れてくれるととても嬉しいです。

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