堀辰雄の年表
1904年 – 0歳「誕生」
複雑な生い立ち
堀辰雄は1904年12月28日に東京・麹町に生まれました。父は堀浜之助という広島藩の士族、母は西村志気という女性なのですが、少し込み入った事情があります。父の浜之助は広島に妻・こうがいて、子どもがいなかったので、辰雄は浜之助とこうの息子とされたのです。
辰雄は2歳まで堀家で育ち、もちろん実の母・志気が育てていたのですが、東京の堀家に正妻・こうが上京することになりました。辰雄を手放したくなかった志気は家出し、向島にある妹夫婦の家に居候を始めます。そして2年後、向島の彫金師・上條松吉と結婚しました。
養父となった松吉はさっぱりとした人で辰雄に愛情を注いで育ててくれたことから、辰雄は松吉が亡くなるまで実の父でないとは知らなかったといいます。辰雄の戸籍は堀家のままだったので、実の父・浜之助が亡くなった後、辰雄が成人するまで恩給(遺族年金のようなもの)が支払われました。このお金は辰雄の学費に当てられたそうです。
1921年 – 17歳「第一高等学校に入学」
文学に目覚める
1917年に牛島小学校を卒業し東京府第三中学校に入学した辰雄は、とても優秀だったため普通5年かかるところを4年で卒業し、第一高等学校の理科乙類に入学しました。数学者を目指しての進学だったのですが、飛び級してしまったことで肝心の数学が分からなくなってしまい、その道は断念しました。けれども、辰雄は高校時代に文学に目覚めます。
その手引きをしたのが、高校で友人となった神西清(じんざい きよし)です。神西に萩原朔太郎の詩集『青猫』を見せられた辰雄はすっかり心を奪われ、詩を書くようになりました。2人は生涯を通して仲が良く、辰雄が亡くなった後に出版された全集は神西の尽力あってのものだったといわれています。
1923年 – 19歳「2人の師との出会い」
室生犀星と芥川龍之介に知り合う
1923年の5月、辰雄は第三中学校時代の校長・広瀬雄から室生犀星を紹介されました。このとき室生は34歳、前の年に息子を失くしたこともあり、辰雄に父親のような優しさをもって接してくれました。辰雄はこの年の夏に室生夫妻について初めて軽井沢を訪れ、その後も軽井沢を愛してことあるごとに訪れています。
この年、辰雄を芥川龍之介に引き合わせたのも室生でした。翌年の夏には室生と芥川のいる軽井沢を訪れ、みんなでドライブなどして楽しい時間を過ごしています。芥川は辰雄を「辰っちゃんこ」と呼び、弟のように可愛がっていました。
関東大震災で母を失う
1923年9月1日、関東大震災が起こり10万5千人もの人々が亡くなりました。堀辰雄は隅田川に避難したのですが、母・志気が水死してしまいます。また、辰雄自身も隅田川を泳いで母を探し回ったうえ、死別のショックもあって冬になって肋膜炎を発症し、高校を休学しています。
1925年 – 21歳「東京帝国大学に入学」
『ルウベンスの偽画』でデビュー
1925年、堀辰雄は東京帝国大学文学部の国文科に入学します。室生犀星の家に出入りして小説家や文芸評論家と知り合うかたわら、第一高校の同期だった小林秀雄らの同人誌『山繭』に寄稿するなど、小説家を目指して活動していました。
1927年には『ルウベンスの偽画』を発表しました。この作品の完成稿が3年後に同人誌『作品』創刊号に掲載されたので堀はこの『ルウベンスの偽画』でデビューしたことになります。この作品は1925年の夏に3か月間軽井沢に滞在したことをモチーフにしていて、ヒロインはそのとき一緒に過ごしていた芥川龍之介の恋人の娘・片山総子がモデルです。
芥川龍之介が自殺
『ルウベンスの偽画』を発表した年の7月、兄のように慕っていた芥川龍之介が自殺してしまいます。辰雄は大変ショックを受けながらも、芥川の甥・葛巻義敏とともに「芥川龍之介全集」を出すために忙しい日々を送りました。しかし、1928年の冬に心労からか風邪をこじらせ、再び肋膜炎を患いました。
『聖家族』出版
1929年、東京帝国大学を卒業した堀辰雄は翌年に『聖家族』を出版します。この作品は、芥川の死に衝撃を受けた辰雄の身辺の体験を作品化したもので、小説家・堀辰雄の出世作となりました。けれども、あまりにも真に迫ってためか、作品の登場人物のモデルであり、芥川の恋人であった片山廣子とその娘・総子から距離を置かれるようになってしまいます。
1933年 – 29歳「矢野綾子と出会う」
軽井沢での出会い
1933年の6月から9月にかけて、堀辰雄は作品を執筆するために軽井沢の「つるや旅館」に滞在します。そのときに出会ったのが『風立ちぬ』のヒロイン・節子のモデルとなった矢野綾子です。彼女と出会った時期のことは中編小説「美しい村」にも描かれています。
翌年、辰雄が信濃追分に滞在していたときに、綾子も家族とともに軽井沢に来ていたため、辰雄も何度か彼女のもとを訪れています。このころ、辰雄は「決定版 芥川龍之介全集」の編集や、以前立ち上げた文芸誌『四季』の復刊に向けての活動で忙しくしていました。そのようななか、1934年の12月に2人は婚約しました。
婚約翌年に綾子が死去
元々結核の療養のために軽井沢に滞在していた綾子ですがあまり回復せず、1935年に富士見高原療養所の医師から入所するように勧められます。富士見高原療養所は結核の治療を目的としたサナトリウムで、辰雄自身も体調がよくなかったために2人で入所することになりました。
6月に2人で入所し、辰雄は秋には回復したのですが綾子はなかなかよくなりませんでした。後に『菜穂子』という小説になる作品の執筆に苦しみながら、辰雄は綾子のそばで過ごしました。けれども12月6日、綾子は24歳の若さで亡くなりました。
1936年 – 32歳「『風立ちぬ』を執筆」
『風立ちぬ』を書き始める
婚約者・綾子と死別した翌年の1936年から、堀辰雄は『風立ちぬ」を書き始めました。この小説は「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」という5つの章で構成されているのですが、まず「風立ちぬ」という章が書かれています。続いて「冬」「春」と書かれました。
けれども、最終章はなかなか書かれませんでした。この年に辰雄は室生犀星に「『風立ちぬ』に連なる『鎮魂曲』のようなものを書きたい」と書き送っているので、現在の完成形の構成になることは計画していたはずです。『風立ちぬ』を完成させるため、辰雄は寒さの厳しい信濃追分で冬を越したのですが、この年のうちには完成しませんでした。
最終章『死のかげの谷』を書き上げる
1937年の冬、堀辰雄はついに『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」を書き上げました。この年、11月に辰雄は信濃追分の「油屋」で『かげろふの日記』という作品を書き上げ、原稿を送るために軽井沢に行きました。その以前から親しかった川端康成の別荘に1泊して信濃追分に戻ったのですが、なんと滞在していた「油屋」は火事で全焼してしまっていました。
仕事のノート類など失ってしまった辰雄はかなり落ち込んだようですが、その冬に軽井沢の川端康成の別荘を借り、そこで「死のかげの谷」を書き上げました。『風立ちぬ』が完成したことがよほど嬉しかったのか、そのころの手紙に「火事でいろいろなものを失ったけれども、この一編が書けたからもうそれほど惜しくはない」と書いています。