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日清戦争とは?原因や結果、結ばれた条約までわかりやすく解説

「日清戦争が起こった原因や結果は?」
「日清戦争と日露戦争の違いや関係性は?」
「日清戦争が与えた影響は?」

日清戦争に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?日清戦争は日本と清が朝鮮半島をめぐり争った戦いであるとともに、近代化した日本が初めて経験した外国との戦争です。日露戦争とともに現代にも直結する非常に大きな意味を持つ戦いでした。また戦いの背景には、単なる日本と清の戦争だけではなく、東アジア各国の様々な思惑が絡んでいました。

そんな日清戦争が起こった背景には一体なにがあったのか?どちらが勝ったのか?日清戦争から程なくして起こった日露戦争との関連性はあるのか?そして、日清戦争が与えた影響は如何なるものだったのか?など、日清戦争に関してわかりやすくお伝えしていきます。

日清戦争とは?

日清戦争を簡単に解説

日本軍歩兵の一斉射撃

日清戦争とは、日本と清(しん、当時大陸にあった満州人の国家)の間で行われた戦いです。その名が示す通り、日本と清の争いではありましたが、主な戦場は朝鮮半島でした。明治維新を皮切りに近代化の道を歩んできた日本が、初めて近代化された軍隊を駆使して戦った対外戦争でした。

詳細は「戦争の原因は?」の部分で後述しますが、当時の強国であったロシアが植民地政策の一環として南へ勢力拡大を図ってきました。このロシアの南下政策に対抗するため、日本としては朝鮮を独立した近代国家にする必要がありました。その際に、朝鮮を属国化していた清と、朝鮮半島を巡って争うことになったのです。

いつ起こったの?

日清戦争を描いた木版画

日清戦争は、明治27年(1894年)7月25日から、明治28年(1895年)4月17日までの約8~9カ月間に渡り繰り広げられました。ちなみに、正式な宣戦布告が成されたのは明治27年(1894年)8月1日で、完全な終戦は、台湾を平定した明治28年(1895年)11月30日とする見解もありますが、一般的には明治27年(1894年)~明治28年(1895年)の間に、日本と清の間で行われた戦争とされています。

どちらが勝ったのか?

日清戦争当時の戦艦

ところで、日清戦争はどちらが勝ったのでしょうか?結論から言うと、日本の圧勝でした。清の海軍は日本の軍艦に接近し、乗り込んできて青龍刀を振り回す近接戦闘で挑みかかってきましたが、これは一昔前の海戦の方法でした。近代化した日本海軍は、清の船が近寄れない距離から砲撃を行い、清軍を圧倒しました。

日本は海戦、陸戦ともに連戦連勝で、一説には「戦いを通じて、日本人1人あたり平均して35発しか弾丸を使わなかった」とも言われています。

勝因はなんだったのか?

黒船来航のイメージ画

当時の清は、日本の経済規模の約5倍で、世界2位の経済大国でありながら日本に完敗しました。なぜ日本は、圧倒的な国力を誇る清に圧勝できたのでしょうか?

日本は、嘉永6年(1853年)の黒船来航に直面し、幕末動乱の時代を乗り切って明治維新を実現、約30年に渡り欧米列強に屈しない強い国づくり(富国強兵)を目指してきました。戊辰戦争で活躍し、近代陸軍の父と讃えられる「大村益次郎」以来、近代式の軍隊の育成に力を注ぎ、軍の規律や武装面で清をはるかに凌駕していました。このように準備してきた成果が、日清戦争で発揮されたのです。

日本の軍隊の基礎を作った「大村益次郎」

「眠れる獅子」と恐れられた大国 清は、新興国の日本に大敗、その弱さを露呈してしまったことで、清の領土は欧米列強に侵食されていきました。一方の日本は、その存在を世界に示し、独立国としての立場を守り抜きました。危機意識を持って近代化を推し進めた日本、そして旧来の体制のまま変わることを拒んだ清の明暗が、はっきり結果として表れたのです。

下関条約が結ばれる

下関講和会議の様子

明治28年(1895年)、日本と清は下関講和会議を開催し「下関条約」が調印されました。下関条約は全部で11カ条から成る条約なのですが、その中でも特に重要なのが第1条です。以下、下関条約第1条の引用です。

清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)

少しわかりづらいですが、要約すると「清は朝鮮の独立を認めること」という意味です。つまり「日本が勝利したことで、清の属国だった朝鮮がひとつの国として独立することができた」のです。この他にも「台湾・遼東半島(りょうとうはんとう)・澎湖諸島(ほうこしょとう)」の割譲、多額の賠償金を獲得するなど、日本は大きな利益を得ることができました。しかし、この後にいわゆる「三国干渉」が起こるのですが、その詳細は後述します。

日清戦争の原因は?

近代化を推し進めた日本

日本に開国を迫ったマシュー・ペリー提督

すでに述べた通り、嘉永6年(1853年)のマシュー・ペリー提督率いる黒船がやってきたことで、日本は幕末動乱の時代を迎えました。欧米列強との軍事力の差を目の当たりにした日本は、列強に追いつかんとし、古い体制である江戸幕府を倒し明治維新を成し遂げました。

欧米列強がアジア諸国を植民地化していく時代の真っただ中にあって、日本を独立国家として存続させるためには「近代化」は絶対に必要だったのです。近代化し富国強兵を行い、列強に負けない軍事力を持たなければ、日本の独立は守れません。つまり「日本の近代化」こそが、明治維新の最大の目的でした。そして、日本にとって地理的にも近く、最も脅威であった列強国がロシアでした。

ロシアの脅威

当時の各国の思惑を描いた風刺画(日本と清が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている)

日本にとっての脅威だった北の大国ロシア。日清戦争というと、どうしても日本と清に目が行ってしまいますが、その背景にはロシアの存在が大きく関係していました。

当時の状況としては、ロシアが南へ勢力拡大を狙っている状態。ロシアは北方にあって寒いので、冬になると海が凍ってしまいます。なので、冬でも使える港「不凍港」が、ロシアは喉から手が出るほど欲しかったのです。ゆえに南下政策を推し進めていました。ロシアが南下した先には清があり朝鮮半島があります。そしてその先には日本があります。日本と朝鮮は隣の国なので、朝鮮半島がロシアの手に落ちた場合、日本はロシアの脅威をもろに受けてしまいます。つまり、いつロシアに侵略されてもおかしくない状況になってしまうのです。

ゆえに日本としては、清の属国だった朝鮮に独立国家になって近代化してもらい、ともにロシアに立ち向かってもらわなければならなかったのです。

朝鮮を従属国にしておきたかった清

主な戦場となった朝鮮半島

しかし、朝鮮は清の属国なので、日本の思惑通りにはなりませんでした。この時の清は全盛期の勢いは失われていたものの、依然として大国であることには変わりがありません。また、体制の変化を嫌うのは人間の常であり、旧体制を守ろうとする勢力は、いつの時代もどこの国でも必ず存在します。

このような「清は朝鮮の宗主国である」という自負やプライドがあり、朝鮮が清から独立することを良しとしない勢力も一定数存在してました。この日本と清の朝鮮半島への対応の違いが、後に日本と清の軍事衝突へと発展していくのです。

戦争勃発までの流れ

では、以下より日清戦争開戦に至るまでの流れを、要点を絞ってわかりやすく解説していきます。

壬午軍乱と甲申政変で揺れる朝鮮半島

朝鮮半島で勃発した「壬午軍乱」

日清戦争とは、ロシアの脅威を背景とした、日本と清による朝鮮半島を巡る争いだったことはすでに述べました。なので、戦いの舞台となった朝鮮半島の情勢も確認しておきましょう。この頃の朝鮮半島では2つの大きな事件が起こっています。

明治15年(1882年)朝鮮半島では、朝鮮国王である高宗(こうそう)の妃「閔妃(びんひ)」と、高宗の父「大院君(だいいんくん)」による派閥抗争が起こっていました。つまり嫁と舅による内輪揉めです。この内輪揉めに介入してきたのが清でした。清の実権を握っていた西太后(せいたいごう)の命令により、袁世凱(えんせいがい)という人物が清の軍隊を率いて朝鮮の鎮圧に乗り出しました。これにより、朝鮮半島の内輪揉めは閔妃が勝利し、大院君は逮捕されてしまいました。この出来事を「壬午軍乱(じんごぐんらん)」、あるいは「壬午事変(じんごじへん)」と呼びます。これ以降、閔妃は急速に清へと接近していきました。

朝鮮を改革しようとしていた「金玉均」

それから約2年後の明治17年(1884年)、清へとすり寄る閔妃に反発した「金玉均(きんぎょくきん)」や「朴泳孝(ぼくえいこう)」といった改革派の人物たちが、閔妃の専制政治を打破するため、日本のに援助を求めクーデターを起こしましす。しかし、またしても清が介入し、このクーデターは失敗に終わりました。この事件を「甲申政変」と呼びます。

天津条約の締結

天津条約に調印した「伊藤博文」

このように、朝鮮半島内部では内輪揉めが起こっており、非常に不安定な状況でした。欧米列強の脅威に対し、朝鮮にも改革を推し進めようとする金玉均のような人物がいたのですが、旧来の体制を維持したい清、そして清にすり寄る閔妃によって、改革派はことごとく処刑されてしまいました。朝鮮を独立させたい日本と清の関係がどんどん不穏になっていきます。

この状況を懸念した日本は、清が朝鮮半島内の問題に介入しないようにするため、明治18年(1885年)、日本と清の間で「天津条約」を締結しました。天津条約では、「日本と清の両国は朝鮮へ勝手に軍隊を派遣しないこと、派遣する場合は互いに事前通告すること」を取り決めました。

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