福沢諭吉が脱亜論を発表
このような最中、一万円札紙幣の肖像で有名な「福沢諭吉」によって提唱されたのが「脱亜論(だつあろん)」でした。福沢諭吉は朝鮮の改革派だった金玉均を自宅に匿うなど、半島の独立を支援していました。しかし、甲申政変の後、清によって金玉均は無惨に処刑されてしまいました。
こうした事実を知った福沢諭吉が、新聞紙上で発表したのは脱亜論です。「欧米列強の脅威が東アジアに迫りくる中、国の独立を守るためには近代化するしかない。しかし、清や朝鮮には改革を成し遂げる意思も能力も無いと判断し、近隣諸国を見捨てでも日本は国力を貯え近代化すべきである」、というのが脱亜論の大まかな主張です。脱亜論が発表されたことで、清との戦いに臨む気運は高まっていきました。
朝鮮半島で発生した東学党の乱
明治27年(1894年)、朝鮮半島でまたしても事件が起こります。清にべったりな閔妃政権の独裁と腐敗に業を煮やした農民が大反乱を起こしたのです。この反乱は、新興宗教である「東学(とうがく)」の教徒たちによる農民反乱だったため、「東学党の乱(とうがくとうのらん)」と呼ばれています。あるいは「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)」とも言います。
朝鮮は自力で乱を鎮めることもできず、またしても清に助けを求めました。この要求に対し清は呼応し軍を派遣します。ここで清が日本に事前通告をしないまま朝鮮に出兵し、軍を駐留させ続けました。つまり、日本と清の間で結ばれた天津条約違反です。
このままでは朝鮮が清に飲み込まれると判断した日本は、朝鮮半島にいる日本人の保護を名目に出兵を決意。欧米列強の脅威を退けるため朝鮮を独立国家にしたい日本と、近代化を望まず旧来のまま朝鮮を属国にしておきたい清の思惑は完全に決裂、こうして日清戦争へと突入していくのです。
日清戦争開戦
豊島沖の海戦
開戦に先立ち、当時の日本の外相であった陸奥宗光(むつむねみつ)は清に対し「7月24日を過ぎても兵員を増派するならば、日本に対する敵対行為と見なす」と最後通告を行いました。こうして明治27年(1894年)7月25日の朝、朝鮮半島西岸の豊島沖で日清両国の砲撃戦が開始されました。日清戦争の開戦です。
この開戦に伴い、日本国内でしばしば対立していた政府と政党が完全な協力体制をとりました。多額の軍事予算が満場一致で可決されるなど、国が一丸となって戦争に臨んだのです。そして、近代化を推し進め挙国一致の体制で戦った日本が優勢のまま、戦況は推移していきました。
高陞号事件が発生
豊島沖の海戦の最中、ひとつの事件が起こりました。イギリス船舶の「高陞号(こうしょうごう)」が、突如戦場に現れたのです。日本と清にとってみればイギリスは中立国です。当時の戦時国際法により、中立国を戦争に巻き込むわけにはいきません。日本は高陞号に停船を命じ状況を確認すると、高陞号は清の兵1100人と大砲14門を運んでいることが判明しました。これは一方の交戦国である清に加担する行為だったため、日本は高陞号を拿捕しました。
しかし、船内にいた清の兵たちが騒ぎ出し、イギリス人船長を人質に取って高陞号を乗っ取りました。日本海軍は交渉を試みますが進展しないまま4時間が経過、「撃沈する。脱出せよ」と最後通告をした後、魚雷を発射し高陞号を撃沈しました。こうして高陞号は沈没し、清の兵約900人が死亡、船長を含めたイギリス人乗組員は救助されました。この事件を「高陞号事件」と言います。
なお、中立国の船だった高陞号に魚雷を発射した日本に対し、イギリス世論は非難の嵐となります。しかし、国際法を遵守していたのは日本だとわかり、イギリス世論は沈静化しました。この、高陞号事件の対応にあたった日本船舶「浪速」の船長を務めていたのが「東郷平八郎」という人物です。東郷平八郎は、後の日露戦争において、ロシアが誇るバルチック艦隊を完膚なきまでに叩きのめした日本海海戦において、日本海軍の総指揮を任されていた人物です。
圧勝した日本
明治維新以来、近代化を推し進めてきた日本が、圧倒的な勝利をおさめたことはすでに述べた通りです。日本海軍は黄海海戦でも清国海軍(北洋海軍)を撃破、陸軍も朝鮮から清の兵を一掃し、遼東半島や山東半島なども制圧、日本が優勢のまま約8ヶ月に渡る戦争は終結しました。
日清戦争における日本人の戦死者は約1万数千人。そのうちのほとんどが、戦地の衛生状態の悪さからくる伝染病による病死でした。