魯山人とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、食へのこだわり、壮絶な人生を紹介】

魯山人の功績

功績1「会員制料亭『美食倶楽部』を創設し、使用する食器も自ら創作」

魯山人の食器に盛られた料理

魯山人は1917年に、知人の中村竹四郎とともに古美術店・大雅堂の経営を開始します。主な仕事内容は古美術骨董や陶器を販売することでしたが、次第に陶器を実際に使用することにも興味が芽生え始め、料理を提供するようになりました。

もともと趣味で料理を作っていた魯山人は、陶器に見合うような高級食材を用いて、完成度の高い料理を目指していくようになります。その志を元に1921年に発足されたのが会員制料亭「美食倶楽部」です。のちに魯山人が陶芸家かつ美食家と称されるようになる原点にもなりました。

そして、4年後の1925年には会員制高級料亭「星岡茶寮」を開設することになります。星岡茶寮は徐々に有名になり、政財界の大物たちにまで評判が届くようになるのです。1928年には皇室にも料亭の良さが伝わり、元帥陸軍大将だった久邇宮邦彦王夫妻を茶寮に招くことにもなりました。

功績2「生涯に30万点もの陶器を制作」

魯山人の手がけた食器

魯山人がその生涯で手がけた陶器の数は20万点から30万点にも登るとされており、一般的な陶芸家が作成する陶器の数は多くても数万点ほどと言われているため、その数の多さは驚異的と言えるでしょう。そして、2013年に「和食」が世界遺産に登録されましたが、その背景には魯山人の陶器と料理が深く関わっていると言われています。それだけの価値がある器を数十万点も残しているため、陶芸の世界に与えた影響は計り知れません。

また、魯山人は陶器だけでなく、書や篆刻、絵画も手がけており、それらも大いに評価されているため、多種多彩な芸術家ということがわかります。

功績3「人間国宝に選ばれるも、辞退 」

人間国宝に選ばれた落語家 桂米朝

魯山人は1955年に重要無形文化財・人間国宝に選ばれることになりましたが、これを辞退しています。その理由を魯山人はこのように語っています。「作家は作品が永遠にものを言うのだから、勲章なんてアクセサリーはいらない。」と。

しかも、認定の際には文部技官の小山冨士夫が2度も魯山人の元を訪れたのにも関わらず、断固拒否するのでした。生涯において芸術を極めていきながら、どの組織にも属することなく制作活動を続け、真の芸術家としての人生を全うしたかったのでしょう。

魯山人の名言

「食器は料理の着物である」

「鳥のように素直でありたい。太陽が上がって目覚め、日が沈んで眠る山鳥のように。この自然に対する素直さだけが美の発見者である。」

「いいかね、料理は悟ることだよ。こしらえることではないんだ。」

「富士山には頂上があるが、味や美の道には頂上というようなものはまずあるまい。仮にあったとしても、それを極めた通人などというものがあり得るだろうか。」

「とにかく、かつての日本人の衣食住は、すべて立派であった。国外に遠慮するものあったら、それは間違いだ。」

魯山人にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「6度の結婚をするも全て上手くいかず」

結婚 イメージ 魯山人は幸せな結婚を完結することができなかった

魯山人は生涯に6度の結婚をしていますが、全て破綻してしまいました。その6回の結婚を以下に列挙します。

  • 1回目:1908年-1914年・安見タミ
  • 2回目:1914年-不明・藤井せき(1914年に婚約のみ?1917年に結婚という説も)
  • 3回目:1927年-1938年・中嶋きよ
  • 4回目:1938年-1939年・熊田ムメ
  • 5回目:1940年-1942年・中道那珂能
  • 6回目:1948年-1949年・峰尾千尋

特に1938年から1948年にかけては立て続けに3回の結婚をしていますが、いずれも1年か2年ほどで離婚に至っているのです。6回の結婚のうち、子供をもうけたのは安見タミとの間に長男・桜一、次男・武夫の2子、中島きよとの間に長女・和子で合計3人でした。そして、2人の男子は夭折、長女・和子は魯山人の骨董を持ち出したことから勘当されるという家庭状況になってしまうのでした。

都市伝説・武勇伝2「ピカソを罵倒」

魯山人は「ピカソ会見記」と言うものを書いており、その中にピカソを酷評する言葉が散見されました。以下にいくつか紹介していきます。

ピカソの陶器作品の一つ 魯山人が酷評したのは別の物

ピカソが作った陶器の皿について

「われわれが考えている芸術家の作品というものは、良否は別にしても生きている、(中略)ピカソの皿にはそれがない。これでいい気になっているというのなら、ピカソという男もたいしたものではあるまい。」

ピカソに実際会見した感想

「有名な絵描きだという先入観なしに会ったならば、カンヌかニースあたりのごろつきの親分だよといわれても、なるほどと思ったかもしれないような太々しいツラをしている。」

シャガールとの比較

マルク・シャガールの作品「誕生日」

「ピカソは自分の方から、陶器の話をきき出すというようなことはしない。まるでおもしろ半分、ケッケッと笑いながら、そこらにある自作を説明してひとり楽しんでいるという態度であった。(シャガールは)賢慮に、東洋の陶器に対する尊敬をこめていってくれたが、ピカソにはそんな常識的なところがなかった。」

一方でピカソの才能を賞賛する言葉も

「ぼくが感心したのは、みみずくの彫刻であった。(中略)アトリエに行ってみると、こいつが幾つもあった。形が一つ一つ違う。一つ一つデザインを変えているのだが、その努力というものには、やはり敬服すべきものがある。(中略)みみずくという、ちょっとユーモラスな鳥をつかまえてくるというのも、彼の才気といってよいであろう。」

都市伝説・武勇伝3「本場のフランス料理にわさび醤油を合わせた」

本格的なフランス料理にわさび醤油を合わせた魯山人

魯山人が食へのこだわりに強かったことは様々な書籍で語られていることですが、それを裏付けるエピソードがフランスへ訪れた際に起こりました。本場のフランス料理店「トゥール・ダルジャン」で食事をした際に、料理の「ソースが合わない」として、魯山人自らが日本から持参したわさび醤油をソースの代わりとして使用したのです。

この「トゥール・ダルジャン」は鴨料理の名店で、ミシュランの3つ星を長期間保持していたことでも有名なお店です。しかも、魯山人の使用したわさび醤油は粉わさびを使用していたとも言われています。

1 2 3 4 5

1 COMMENT

コメントを残す