魯山人とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言、食へのこだわり、壮絶な人生を紹介】

1927年 – 44歳「魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立し、作陶活動へ」

宮永東山窯から美濃焼の陶芸家、荒川豊蔵を招く

魯山人は本格的に陶器制作活動へ乗り出すために、美濃焼の第一人者である荒川豊蔵を宮永東山窯から星岡茶寮へと招き入れました。そして、「魯山人窯芸研究所・星岡窯」を設立し、陶器制作に力を入れるようになります。

翌1928年にはさらなる陶器の勉強をするために朝鮮へと渡り、窯跡の視察などを行いました。日本へと戻ると、これまでに作った作品を展示し、日本橋三越にて「星岡窯魯山人陶器展」を開催するのです。

星岡茶寮に久邇宮邦彦王を迎える

星岡茶寮を訪れた邦彦王

1928年には星岡茶寮の評判が皇室まで到達し、元帥陸軍大将でもあった久邇宮邦彦王夫妻を茶寮に招くことになりました。魯山人の陶器や料理は政財界の要人達の間でも話題に上るようになり、会食の開催を依頼されることもあったのです。

1933年 – 50歳「銀茶寮・大阪星岡茶寮の開業、そして、星岡茶寮からの解雇」

銀茶寮・大阪星岡茶寮開業

大阪星岡茶寮

1930年には雑誌「星岡」を創刊し、1931年には便利堂から「古染付百品集」を出版、1933年には「魯山人小品画集」を刊行するなど、書籍の制作に精を出しました。1933年には星岡茶寮の系列店となる「銀茶寮」を開業し、それと同時に志野焼の制作に取り掛かります。

1935年にはさらなる系列店「大阪星岡茶寮」を開業しました。そして、上野松坂屋にて「魯山人作陶百種展覧」を開催し、そこで新しい登り窯による作品も同時に発表するのでした。

魯山人の横暴さによって星岡茶寮を解雇に

北大路魯山人「織部木の葉向付」 木の葉絵丸鉢の大量発注を受け、一気に懐が潤う

星岡茶寮の経営自体はうまくいっていたのですが、魯山人の出費の多さや横暴さが目立つようになり、これを見かねた社長の中村竹四郎が魯山人を解雇することに決めたのです。追放された魯山人は、収入が無くなってしまったため、経済的に困窮しました。

しかし、1937年には東京火災保険の創立50周年の記念品として木の葉絵丸鉢の大量発注を受けることになり、この仕事によって一気に懐が潤うことになるのです。

1945年 – 62歳「星岡茶寮が空襲で焼失、銀座に『火土火土美房』設立」

空襲により星岡茶寮が焼け落ちる

東京大空襲のあとの様子 星岡茶寮は空襲で焼け落ちてしまう

1936年に星岡茶寮を解雇された魯山人でしたが、1945年には空襲によって茶寮が焼失してしまいました。魯山人が料理と陶器を極めていく過程で重要な役割を果たした場所であったため、名残惜しい気持ちになったようです。

また、魯山人はこの時期、結婚と離婚を繰り返しています。最初の結婚は1908年、2回目は1914年でしたが、1927年の3回目の結婚の際に結ばれた中嶋きよと1938年に離婚すると、同年に熊田ムメと4回目の結婚、1939年にムメが出ていくと、1940年には中道那珂能(新橋芸者の梅香)と5回目の結婚、1942年に離婚、そして、最後は1948年に峰尾千尋と6回目の結婚をすることになるのでした。

自作直売店「火土火土美房」を銀座に開設

自作直売店「火土火土美房」開店の広告

1946年には銀座に自作直売店「火土火土美房」を設立しました。自ら制作した陶器をそのまま売り込むスタイルの店で、日本人のみならず、在日欧米人にも人気が広がったため、戦後に困窮していた生活も潤っていくようになります。

1948年には日本橋三越で「魯山人絵画展」を開催しました。魯山人は書や陶器、料理のみならず、絵画にも自らの才能を開花させるのでした。

1951年 – 68歳「ピカソに陶器を賞賛される」

パリの「現代日本陶芸展」に出品、ピカソの目につく

魯山人の器がピカソの目にとまる

1951年に開催された「現代日本陶芸展」に板谷波山、加藤九郎らとともに陶器を出品することになりました。場所をヴァロリスに移して開催された同展覧会にピカソが視察に来ており、この時に魯山人の陶器が注目を浴びることになったのです。

イサム・ノグチ、山口淑子夫妻を自宅に招く

イサム・ノグチ

1951年に結婚したイサム・ノグチ(アメリカのロサンゼルスに生まれた日系アメリカ人、彫刻家・画家)、山口淑子(芸名:李香蘭、歌手)夫妻を鎌倉山崎の魯山人邸に招き、一時寄寓(短期間住まわせること)させることになりました。そして、ノグチはそこでアトリエを築くことになります。

1954年 – 71歳「ピカソとシャガールを訪問」

アメリカやヨーロッパ各地を行脚、ピカソとシャガールを訪問

マルク・シャガール

1954年、ロックフェラー財団の招聘により、アメリカやヨーロッパの各地で展覧会や講演会を行うことになりました。ニューヨーク近代美術館では「魯山人展」が大々的に催されることとなるのです。

ヨーロッパでも各地に招聘され、フランスのヴァロリスへ赴いた際にはパブロ・ピカソとマルク・シャガールの両氏の元を訪れることになりました。

日本へ帰国後も日本各地で展覧会を開催

魯山人の作品の数々

1955年に日本へ帰国すると、各地で展覧会を開催することになります。1955年、高岡市美術館で「帰朝記念展」を開催、1956年には京都美術倶楽部にて「魯山人作品展」、1957年には名古屋名鉄百貨店で「第五十三回魯山人作品展」、1958年、日本橋壷中居にて「魯山人近作陶芸展」、1959年には京都美術倶楽部で「魯山人書道芸術個展」を開催しました。

また、1955年にはNHK国際放送に出演することが決定し、そこで「やきものの話」と題して陶芸についての番組を放映することになったのです。

1955年 – 72歳「人間国宝に選ばれるも、辞退」

重要無形文化財・人間国宝に推奨されるも辞退

1955年、魯山人は重要無形文化財・人間国宝に選ばれることになりました。しかし、本人は頑なに固持し、受け入れることはありませんでした。その時の理由は「作家は作品が永遠にものを言うのだから、勲章なんてアクセサリーはいらない」ということだったのです。

1959年 – 76歳「76歳で帰らぬ人に・死因は肝臓ジストマによる肝硬変」

入退院を繰り返したのち、肝臓ジストマで肝硬変を患う

魯山人の墓 京都府京都市西京区松尾神ヶ谷町 西芳寺

1959年に入ると、前立腺肥大症の手術を受けるために横浜十全病院に入院しました。手術は無事に成功しましたが、その後すぐに胃潰瘍のための手術も受けることになったのです。

胃潰瘍の手術も問題なく執り行われたため、一時退院することになりましたが、12月には肝臓ジストマ(現在では肝吸虫)と言う寄生虫による肝硬変が発覚します。そして、再度、横浜十全病院に入院を余儀なくされ、12月21日、肝硬変によって帰らぬ人となってしまうのでした。

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