林芙美子は明治に生まれ、昭和になってからすぐに小説家として活躍した女性です。昭和には大きな戦争がありましたが、彼女は戦争に怯むことなく創作活動を続けました。戦争が終わってからは更に活躍の幅を広げ、名実ともに日本の女性小説家の第一人者となったのです。
父母の正式な子どもとして生まれなかった芙美子は、自らの不幸な生い立ちを隠すことなく、作品として昇華させました。そしてその後も書斎にこもることなく、戦争が起こっている現場を自分の足で歩き、感じたことを文字にしていきました。そのリアリティが感じられる文章は、文字と縁遠かった多くの人を惹きつけていきます。
自由奔放な面だけが目立ってしまう芙美子でしたが、家庭生活も大切にしていました。夫に支えられながらの文筆生活は彼女にとってもかけがえのないものだったのでしょう。子どもに恵まれることはありませんでしたが、料理の腕をふるい、養子として引き取った泰(たい)を育て、堅実な家庭生活を送っていました。
しかし、売れっ子の作家となってからも、仕事を断らず力の限りに書いた芙美子はどこかで無理をしていたのかもしれません。晩年は心臓を悪くしていたそうですが、タバコやコーヒーを控えることはありませんでした。
医師の止めるのも聞かず、雑誌社の取材にでかけ、体調を崩した芙美子はあっけなく心臓麻痺でこの世を去ってしまいます。享年は47歳。あまりに早すぎる死でした。
女性なら誰でも気になる林芙美子の人生(実際に多くの女性小説家たちが彼女の人生を解明するために、本を書いています)をその作品や年表から、丁寧に解説していきたいと思います。きっとこれからの人生の道標になるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
林芙美子とはどんな人物か
名前 | 林芙美子(本名はフミ子) |
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誕生日 | 1903年12月31日 |
没日 | 1951年6月28日 |
生地 | 山口県下関市、あるいは福岡県門司市 |
没地 | 東京都新宿区下落合 |
配偶者 | 手塚緑敏(てずかまさはる) |
埋葬場所 | 萬昌院功運寺 |
林芙美子の生涯をハイライト
林芙美子は1903年に山口県内で生まれています。詳しい出生地や出生日には諸説ありますが、1903年12月31日に生まれたとする出生届が、叔父の家がある現在の鹿児島市に出されています。
父母が結婚に反対されていたために、芙美子は母方の叔父の戸籍に入ることになりました。その後母が父とは別の男性と暮らすことになり、芙美子もともに家を出ます。新しく始まった親子3人での生活は行商をして各地を転々とする厳しいものでした。
その後、思春期の芙美子たちは広島県尾道市で暮らします。この街で彼女は文才を開花させ、ペンで身を立てたいと希望するようになります。芙美子は女学校を卒業すると上京してさまざまな職を転々としながらも、創作活動に打ち込みます。結婚後の1928年には代表作「放浪記」を連載。流行作家になるのです。
第2次世界大戦中も芙美子は新聞社の特派員や陸軍の報道班員としての活動を続け、休むことはありませんでした。戦後は一層執筆活動に力が入り、女性の小説家としては第一人者となりますが、忙しすぎる生活が彼女の命を削ってしまったようです。
1951年6月28日、前日には出版社の取材を行っていた芙美子でしたが、突然の心臓麻痺でこの世を去ります。あまりに突然の早すぎる死に、林芙美子はジャーナリズムに殺されたと言う人すらいたそうです。
林芙美子の誕生・苦しい子ども時代
林芙美子の母は林キク、鹿児島で温泉宿を手伝っていました。父は宮田麻太郎と言い、キクよりも14歳年下の行商人でした。結婚に反対されていた2人でしたが、芙美子が生まれてからも麻太郎は認知をせず、芙美子は母方の叔父の戸籍に入ることになります。
6歳のときには両親が別離。それには父の仕事の破綻や浮気などのさまざまな原因がありましたが、母自身も父の使用人だった沢井喜三郎と恋愛関係になっていました。芙美子と母、そして新しい父との生活が始まったのですが、それもまた各地をてんてんとする厳しいものでした。
その後、芙美子が11歳のときに、一家は当時炭鉱の町として栄えていた福岡県直方市(のおがたし)に落ち着きます。このときのことは放浪記でも赤裸々に描かれていますが、この街は芙美子には良い思い出をもたらさなかったようです。苦しい生活の中で、芙美子を支えたのは少女向け雑誌に連載されていた小説や詩でした。
芙美子の第2の故郷・尾道での生活
1916年、芙美子が13歳の頃には一家の生活が少し落ち着き、広島県尾道市で生活をするようになりました。芙美子はこの地で小学校を卒業、高等女学校に進学します。
芙美子は夜や休日には働かなくてはなりませんでしたが、図書室の本をじっくり読む心の余裕ができたようです。落ち着いた生活の中で、18歳の頃からたびたび地方新聞に芙美子の詩や短歌が掲載されるようになりました。
尾道では文才が育まれ開花しただけでなく、友人にも恵まれました。このため芙美子は尾道を故郷と思い、後になってもたびたび帰郷しています。
女学校卒業後は上京して、職をてんてんとしながらも、創作に打ち込む芙美子。尾道での生活が基礎となり、芙美子の作家としての人生が始まったのです。
いくつも職を経験!生活力のある女性だった芙美子
作家を志し、尾道から上京した芙美子はいくつもの職を渡り歩きました。最初は先に上京していた恋人を頼りましたが、その恋人と破局。1人で生活をするためにはやむを得ないことでした。
その職種はカフェの女給、セルロイド工場の女工、事務員などさまざまでした。母が芙美子の後を追って上京してからは、一緒に露天商もやったそうです。忙しい中、創作をする時間もなかったようですが、そんな生活の中でも芙美子は自らの感情を記録することは忘れませんでした。
関東大震災の頃からは、本名のフミ子ではなく芙美子の名前を使うようになりました。そしてこの頃からつけ出した日記が放浪記のもとになります。芙美子の人生はすべてが創作に結びついていたと言えるでしょう。
売れっ子作家となってからの生活
1926年には結婚。夫の助けもあり、1928年に連載された放浪記が好評を得て、芙美子は売れっ子の作家になりました。
この頃芙美子は、自分の収入で中国に一人旅をします。講演会などのために国内を旅行することも増え、1931年にはパリに一人旅をした後、ロンドンにも住むという思い切った行動を取ります。
この時すでに満州事変は始まっており、世相の安定しないなかでの女性の一人旅は苦労も多かったでしょうが、同時に注目を集めたはずです。この後の第2次世界大戦では新聞社の特派員や、日本軍の広報班員としても活動します。彼女の行動力は今考えてもすごいものでした。
林芙美子の力強い創作活動は、第2次世界大戦という大きな出来事があっても、それを物ともせずに続いていったのです。