1945年 – 42歳「終戦、帰京そして執筆活動の再開」
自由な時代の到来を喜んだ芙美子
1945年8月に第2次世界大戦が終わり、芙美子は10月には帰京します。1941年に新宿区下落合に建てた家は空襲を免れて無事でした。自由に小説が書ける世の中になったことを芙美子は喜んでいたそうです。
やはり戦争中は無理をしていたところがあったのか、親交のあった川端康成には、もう嘘はつかないという内容の手紙を送っています。
本にする紙を工面するのも難しい世の中でしたが、多くの人は活字に飢えていました。芙美子の作品も心待ちにされていたことでしょう。
愛する夫とともに、芙美子の自宅での執筆生活が再び始まりました。
女流文学者賞の受賞
戦後も芙美子は次々と作品を生み出します。名作と言われるものも生まれましたが、そんな作品の1つ、「晩菊」で1948年に女流文学者賞を受賞します。
女流文学者賞は鎌倉文庫の女性雑誌・婦人文庫が、1947年から1960年まで主催していました。1961年には中央公論社に引き継がれ、女流文学賞となっています。芙美子は第3回の受賞者でした。
これで芙美子は名実ともに女性小説家の第一人者となったのです(第4回で受賞した古屋信子はこれで純文学作家の仲間入りができたと大いに喜んだそうですから、権威のある賞だったのは間違いありません)。
受賞後の1949年から1951年には同時に9本の中・長編を同時に連載、しかもその合間には取材に出かけたり、ラジオに出演もしたと言いますから、その忙しさは想像もできません。しかしその精力的な仕事ぶりが、芙美子の命を削ることになったのはとても残念です。
1951年 – 47歳「芙美子、死去」
最後まで仕事を続けた芙美子
もともと心臓に持病があった芙美子(心臓弁膜症だったと言います)。医師からは再三の注意を受けていましたが、仕事を減らして休養に充てることはなかったようです。亡くなる前日は雑誌・主婦の友に連載している記事のための取材を2件こなしていました。
帰宅後に苦しみだし、翌日、6月28日の明け方に芙美子は亡くなってしまいました。葬儀委員長はかねてから親交のあった川端康成で、芙美子はときにひどいことをしたと弔事で言ったそうです。それは何に対してのことだったのか、今もいろいろと考えさせられます。
どんな仕事も人に取られるのを嫌ったとか、文壇では他の女性小説家に対抗心を燃やしていたとか、確かに芙美子にはさまざま噂がありました。
いろいろあるのが人間だと教えてくれる存在
どんな噂があったにせよ、葬儀のときにはたくさんの市民が詰めかけ、芙美子を見送ったそうです。
ひどいことをしたのも、たくさんの市民に愛され見送られたのも、どちらも本当の芙美子の姿なのかもしれません。忙しい人生でしたが、芙美子は今、静かに東京都中野区の萬昌院功運寺で眠っています。
戦争協力の是非を問われながらもたくさんの人に見送られた芙美子は、やはり普通に生きる人々に寄り添った人生を送ったのではないでしょうか。
林芙美子の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
放浪記
故郷を持たず、貧しい生活を送っていても向上心を失わない主人公の生き方に、希望がもらえます。今の時代だからこそ、もう1度読みたいと思える作品です。
しかし、林芙美子の人生を思うと、向上心だけでなく、自分を認め許すことも大切だったのではないかと、現代に生きる私は考えてしまいます。
林芙美子 女のひとり旅
芙美子の生きた時代こそ、女性の旅が大切だったのではないかと考えさせられます。旅で芙美子は自由な空気を存分に吸うことができたのではないでしょうか。
この作品では、芙美子のたどった道のりを確かめられます。また、今ではなかなか読むことができない芙美子の紀行文がまとめて読めるので、得をした気分になれる本です。
戦線
芙美子が実際に戦地に赴いて、書き上げた作品です。戦地という異常な状況で作家としての芙美子は何を感じたのか、とても興味を持って読むことができました。
芙美子がこの作品を書いたことも、私たち読者は忘れてはいけないと思います。そして1人の小説家をこうまで翻弄した戦争があったこともまた、忘れてはいけないのです。
関連外部リンク
林芙美子についてのまとめ
林芙美子について作品と人生から詳しく解説してきました。芙美子の生きた時代には戦争があり、個人の力ではどうにもならない部分がありました。しかし今はとりあえず平和で、個人の自由が認められています。
きっと今でも芙美子なら売れっ子の小説家になり、ネットを駆使して自分を世間に売り込むこともお手の物だったのではないでしょうか。
芙美子のことを知れば知るほど、今の世の中について何と言うのか、聞いてみたいです。そんなことを考えながら読むと、一層芙美子の作品は心に染み入ってくるように感じます。