林芙美子の年表
1903年 – 0歳「芙美子、誕生」
父との別れ
1907年には父の仕事がうまく行くようになり、家族の生活も安定するかと思われましたが、1910年、父の仕事が破綻したことや浮気が原因で母は家を出ることになりました。
そのとき芙美子は父に、父と母どちらを選ぶのか迫られたそうですが、迷いなく母の側についたと言います。
母も父の使用人だった沢井喜三郎と恋愛関係になっており、芙美子には新しい父ができることになりました。しかし、新しい父も行商人で生活は苦しく、各地を転々とする落ち着かないものでした。
養父の仕事も破綻
こうして家を出た芙美子たちでしたが、養父となった喜三郎が始めた古着屋も1914年には倒産してしまいます。このために一時は芙美子は叔父が生活する鹿児島に預けられました。
再び一緒に生活できるようになっても、生活は楽になったわけではありませんでした。芙美子たちは行商のための旅を続け、安宿をてんてんとする生活を送ったのです。
この後、一家は福岡県直方市におちつくことになります。当時直方市は石炭産業で活気があったために、芙美子の父母は商売をするのに良いと考えたのでしょう。この街は芙美子に良い思い出を残したとは言えませんでしたが、ここでの生活が後に放浪記を執筆する原動力となりました。
1916年 – 13歳「芙美子一家、尾道に落ち着く」
2年遅れで小学校を卒業
尾道でやっと芙美子たち一家は落ち着いた暮らしができるようになったようです。その証拠に1918年には2年遅れで小学校を卒業。その後は高等女学校に進学します。これは小学校の教師が芙美子の文才を認め、進学するように勧めたことで実現したようです。
夜間や休日は働かなければならなかった芙美子ですが、女学校では読書に耽り、恋愛にも興味を持つなど青春を謳歌した様子が伝わってきます。
ちなみに、芙美子が進学した女学校は現在でも県立尾道東高等学校として存続しており、林芙美子の母校ということで校内には記念碑が建てられています。
いよいよ上京
1922年、女学校を卒業した芙美子は上京します。先に上京していた恋人を頼ってのことでしたが、身分違いの恋を反対されていたため、恋人は上京後わずか半年で芙美子のもとを去ってしまいました。ですが、芙美子はへこたれることはありませんでした。
芙美子は当時の女性ができる仕事を手当たりしだいにこなして、自活しながら創作への意欲を燃やし続けました。そして新たな恋も経験します。俳優の田辺若男(たなべわかお)、詩人で童話作家の野村吉哉(のむらよしや)との恋愛は芙美子の世界を大きく広げたのです。
ただ、どの恋も長く続くことはなく、芙美子の生活が落ち着くことはありませんでした。
1926年 – 23歳「芙美子、結婚」
結婚して、初めて落ち着いて執筆活動に取り組む
1926年に芙美子は突如1歳年上の画学生、手塚緑敏(てずかまさはる)と結婚します。彼は芙美子の才能を妬むことなく、秘書としてその執筆を助けるような人だったと言います。実際に芙美子が生きている間だけでなく、亡くなってからも緑敏は芙美子の残したたくさんの作品の整理を続けました。
緑敏の深い愛情に包まれて、芙美子の才能は開花したと言っても良いでしょう。しかし、放浪記が出版されるまで芙美子は小説家として注目されることはまったくなく、2人の生活は経済的には苦しいままでした。
小説家としていつ芽が出るかわからず、困窮していく生活の中で芙美子は絶望的な気持ちになったこともあったようです。それを押し留めたのは緑敏の存在だったのかもしれません。
芙美子を陥れた昭和恐慌
1920年代の日本は慢性的な不況に陥っていました。
第1次世界大戦のときは好景気だった日本ですが、その後ヨーロッパの製品がアジアに戻ってくると不況に陥ってしまいます。これが原因となったのか、次には銀行恐慌が起こります。預金を引き出す人々が銀行に殺到、銀行が破綻してしまったのです。
そしてその後には関東大震災、世界恐慌(アメリカでの株価暴落が引き起こした世界的不況)が続きます。芙美子が経済的に追い詰められたのは、この不況も一因だったと思われます。しかし、放浪記は不況にもかかわらず、ベストセラー小説になります。
慢性的な不況、そして戦争に向けて進んでいく日本に対して、人々は不安な気持ちを持っていたのでしょう。不幸な境遇に負けることなく、たくましく生き抜いていく女性の姿を描いた放浪記は、読む人に希望を与えたのです。
1930年 – 27歳「芙美子、旅を始める」
放浪記が売れたから、旅を始めた?
1930年、改造社から刊行された「放浪記」と「続放浪記」の売れ行きが好調だったために、その印税で芙美子は中国に一人旅をしました。放浪生活が長かった芙美子にとって1つのところに留まり、仕事を続けることにストレスが溜まったのかもしれません。
また、この頃から講演会などで国内を旅行することも増え始めました。旅をするのは感性を磨くためでもあったようで、パリにも出かけ、その旅行記は今でも読むことができます。飛行機で気楽に海外に行ける現在と比べると当時の海外旅行には費用も時間もかかりましたが、それを物ともしなかったのは芙美子ならではでした。
この経験が後の新聞社の特派員や陸軍の広報班員としての活動につながっていくのです。
戦時中の芙美子
1937年日中戦争が起こると、芙美子は毎日新聞の特派員として南京攻略戦に赴きます。翌年には武漢戦(現在の中国武漢市での戦い)が起こり、政府は国民の戦意を高揚させるために、小説家たちでペン部隊を編成、中国に派遣します。芙美子はこのペン部隊の役員に選ばれます。女性で選ばれたのは芙美子も含めて2人だけでした。
武漢戦で日本が陥落した都市・漢口に芙美子が一番に乗り込んだのは、このときです。この事実は、日本人の戦意を高揚させるために大いに役立ったのです。
また、戦争の実態も軍部の許可なく、自由に報道することはできなくなっていました。多くの小説家やジャーナリストは軍部の報道部に徴用され、許された範囲での報道を余儀なくされます。1942年には、芙美子は陸軍報道部報道班員として、シンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在しました。
芙美子の行動は戦争協力と言われても仕方のないものでしたが、戦争中も何とか執筆活動を続けたいと願うあまりの行動だったのかもしれません。しかし、その心の内はどのようなものだったのでしょうか。