林芙美子の功績
功績1「桁外れの行動力!特派員となって海外を巡った芙美子」
日中戦争(これは後に第2次世界大戦の一部だと考えられるようになります)が始まると、芙美子は新聞社の特派員として戦地に赴きました。その後はペン部隊の一員として、自ら恋愛などを書いている場合ではないと発言、日本軍が陥落した漢口(かんこう、またはハンコウ・現在の中国武漢市の一部)へは男性を出し抜いて一番乗りをします。
1940年には北満州と朝鮮、1941年には満州国境を訪れます。そして1942年の10月から翌年の5月まではシンガポール・ジャワ・ボルネオに陸軍報道部報道班員として滞在しました。
これは立派な戦争協力ですが、芙美子にとっては女性の立場で仕事を続けていくためにはやむを得ない行動だったのかもしれません。実際に芙美子の作品も戦時中には発売禁止処分を受けており、不安な生活の中での戦争協力を誰も責めることはできないでしょう。
戦争協力の是非についてはここでは論じませんが、芙美子は女性という枠にとらわれずに活動できることを一般の人々に証明してくれました。どんなことがあっても創作活動を諦めたくない、それが芙美子の正直な気持ちだったのかもしれません。
功績2「仕事量がすごい!仕事を断らなかった芙美子」
戦後になって芙美子はさらに精力的に作品を生み出していきます。終の棲家として建てた下落合の自宅は空襲の被害を免れ、自由に作品が発表できる時代がやって来たことを喜んでいたそうです。
かつて原稿の売り込みで苦労した経験から仕事を断らなかった芙美子は、ジャーナリズムにとって便利な存在とまで言われました。
1948年には女流文学者賞を受賞、その後の1949年から51年までは9本の中・長編を並行して連載した他、取材にも自分で出かけるという忙しさでした。しかし、その忙しさが結果として芙美子の命を縮めてしまったのかもしれません。
林芙美子の名言
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき
芙美子は生前、好んでこの言葉を色紙などに書いていたそうです。自らを花に例えて、若くて楽しい時は短く、苦しいことが多かったと言っています。
その苦しさを乗り越えるために、ひたすらに走り続けた芙美子でしたが、そのひたむきさが命を削ってしまいました。その皮肉さにやりきれなくなってしまいます。
どんな男の人と一緒になってみても同じ事だろうと私が言うと、「そんな筈ないわ、石鹸だって、 十銭と五十銭のじゃずいぶん品が違ってよ」
代表作「放浪記」の一文です。身も蓋もない言い方ですが、真実を言っているのでしょう。さまざまな男性と付き合いがあった芙美子だからこその名言です。
この場合十銭よりも五十銭が優れているのではなく、自分にあっているのはどちらなのかを考えるのが大切なのだと思わされます。
林芙美子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「養子?実子?芙美子の息子とは」
芙美子には正式な実子はいないとされています。1943年、芙美子はどこからか新生児をもらい、養子にしました。この子は泰(たい)と名付けられますが、実はこの子は芙美子が恋人との間に作った実の子どもではなかったかと言われています。
1942年から43年にかけて芙美子は陸軍の報道部報道班員としてシンガポールなどに滞在していました。このときに秘密裏に子どもを出産し、養子だと偽ったのではないかとも言われており、その疑惑を記した書籍も出版されています。これが本当だとすると、なかなかミステリアスな話ですが、当の泰は芙美子の死後に不慮の事故でこの世を去ってしまいました。
芙美子の死後、夫の緑敏は手伝いに来ていた芙美子の姪と再婚しますが、泰が亡くなったことで入籍を延期します。十三回忌が終わるまで入籍を延期したため、正式に夫婦になったとき、緑敏は70代になっていたということです。
血縁関係は関係なく、芙美子と緑敏、そして泰は本当の家族だったのでしょう。
都市伝説・武勇伝2「芙美子の命を縮めたのはタバコだった?」
林芙美子はタバコを常用していました。それもかなりのヘビースモーカーだったと言います。タバコに含まれるニコチンには血液の流れを悪くする働きがあります。タバコを吸うことで、体内にニコチンが入ると無理にでも身体は血液を流そうとするので、心臓に余計な負担がかかるのです。
長年執筆活動を続けながら、国内外に出かけていた芙美子には肉体的な疲労だけでなく、精神的なストレスも相当溜まっていたことでしょう。その証拠に芙美子はコーヒーも大好きだったようで、嗜好品に依存しやすい状態だったことがわかります。
長年タバコを吸っていたことと、普段から仕事で無理をしていたことで芙美子の心臓には相当の無理がかかっていたと思われます。通常女性は閉経を迎えるまで心臓疾患になる人は少ないのですが、芙美子は晩年には心臓に持病を持っていたと言います。
好きなことをしていると疲労やストレスには気づきにくいものです。芙美子も自分の病が死に結び付くとまでは考えていなかったのでしょう。
都市伝説・武勇伝3「現代に通じる食の好み・芙美子の料理とは」
自由奔放に生きたと思われる芙美子ですが、1人の主婦としての料理の記録が残っているのは興味深いことです。戦後まもなく、昼食によく芙美子が作ったのはバタートーストだったそうで、これは近所に住んでいた泰の同級生が思い出として語っています。
トーストの上には浅草海苔が載せられていたと言います。当時、バターはとても高価なものだったので、これは常に働いていた芙美子の経済力がないと作れないメニューだったかもしれません。
当時小説家として忙しかった芙美子でしたが、昼食の後は自分が執筆しているすぐ側で同級生と泰を遊ばせたそうです。芙美子は執筆の邪魔になるからと子どもを締め出すようなことはしなかったのです。
また、自身が連載を持っていた雑誌「主婦の友」には、トマトのすき焼きを紹介しています。現代ではトマトには旨味成分のグルタミン酸が含まれていることが知られていますが、芙美子はこれを知っていたのでしょうか。もし知らずにやっていたとすると、斬新で現代にも通用する食のセンスが芙美子にはあったことになります。