ヴァイキングとは、9世紀から11世紀中ほどまでの250年間の間、西ヨーロッパ一帯の脅威となった武装船団の通称です。
上記の画像のような「毛皮のベストを着て、角付き兜を被った海賊」というイメージで語られることも多く、現代でにおいても海賊のイメージとしては、エドワード・ティーチ(黒ひげ)と並ぶほどの知名度を取っている存在だと言えるでしょう。
という事でこの記事では、そんな暴れ者だったバイキングの歴史や文化風俗などを紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
そもそもヴァイキングとは?
序文でも書いた通り、ヴァイキングとは9世紀から11世紀中旬ごろまで、主に西ヨーロッパ一帯の脅威となった武装船団、あるいは海賊行為を生業としていた部族たちの通称です。
主にスカンジナビア半島やバルト海の沿岸地域に住んでいた北方系ゲルマン人が「ヴァイキング」として活動をしていたらしく、現在の研究の上では、そのような北方系ゲルマン人(ノルマン人)のことを指して「ヴァイキング」という言葉が使われることもあるようです。
多くのヴァイキングが略奪やそれに伴う虐殺行為に及んだことから、ヴァイキングは当時のヨーロッパにおいては黒死病と並ぶ厄介な脅威の一つでした。
しかしその一方で、ヴァイキングとの交易が、当時の混乱していた地中海交易の補完の役割を果たしていたことや、アイスランドとグリーンランドの発見など、一様に”害”とも言えない、人類の歴史になくてはならない存在でもあるのが、ヴァイキングという存在になっています。
ということで、次のトピックでは簡単にヴァイキングの隆盛と衰退の歴史を見ていきましょう。
ヴァイキングの歴史
「海賊」のイメージが強いヴァイキングですが、実際の歴史においてはどうだったのか?このトピックではヴァイキングの歴史について、簡単にまとめさせていただきました。
北欧から海へと乗り出す
ヴァイキングの時代は、793年に起こったリンデスファーン修道院への襲撃によって幕を開けました。彼らがそのような行為に及んだ原因は諸説がありますが、キリスト教との対立やヨーロッパへの侵略目的などの説、あるいは人口が過剰になったため、領土拡張の必要性があったなどの説が一般的です。
元々スカンジナビア半島周辺を勢力圏とする北方系ゲルマン人は、交易や略奪のために海に出ることがあったようですが、この頃になると船でこぎ出した先の地に前線基地を作り、その地に半ば定住する形で略奪を開始し始めたことが記録されています。
そしてこの定住に伴う略奪が、いわゆる「ヴァイキング」の始まりとなっているようです。
こうして9世紀初頭頃、西ヨーロッパ方面に勢力を伸ばし始めたヴァイキングは、カール大帝が指揮するフランク王国とデンマーク王ゴズフレズの小競り合いを背景にみるみるうちに勢力を拡大。その造船技術の優位性のまま、地中海方面に至るほどに南進を続け、ヨーロッパの非常に広い範囲を勢力圏に収めることに成功しました。
また、彼らは9世紀半ばにはセーヌ川河口流域にまで進出し、そこを足掛かりにイングランドにまで侵攻。911年にはこの事態を重く見たシャルル3世との交渉の末、周辺のノルマン人を指揮していた首長・ロロがノルマンディー公国を建国するに至るなど、ヨーロッパの中で北方系ゲルマンによる勢力を多数築き上げることとなりました。
各地への定住と、北方進出
ノルマンディー公国が勃興した911年ごろから、次第にヴァイキングたちは各所への入植や定住を始めていきました。そしてその一方、ノルウェーのヴァイキングたちは独自に北方にあたる北極海方面へと進出し、ヨーロッパにおける多くの新発見をもたらしました。
ヨーロッパにおけるノルマンディー公国への定住はもとより、ノルウェー系ヴァイキングにおいては、赤毛のエイリークによる985年のグリーンランド入植。エイリークの息子であるレイフ・エリクソンによるヴィンランド(現在のカナダ、ニューファンドランド島という説が有力)への入植などが、この時期におけるヴァイキングの主な活動となっています。
また、南イタリアに進出していたノルマン人たちは、その軍事的な能力によって勢力を拡大。1130年にシチリア王国を築き上げるなど、ヴァイキングが元となった国家が続々と打ち立てられることになったのもこの時期です。
このように、ヴァイキングとしてスカンジナビア半島を出たノルマン人たちは、ヨーロッパ各地に食い込み侵略していく形で勢力を拡大していったのでした。