ヴァイキングとは、9世紀から11世紀中ほどまでの250年間の間、西ヨーロッパ一帯の脅威となった武装船団の通称です。
上記の画像のような「毛皮のベストを着て、角付き兜を被った海賊」というイメージで語られることも多く、現代でにおいても海賊のイメージとしては、エドワード・ティーチ(黒ひげ)と並ぶほどの知名度を取っている存在だと言えるでしょう。
という事でこの記事では、そんな暴れ者だったバイキングの歴史や文化風俗などを紹介していきたいと思います。
そもそもヴァイキングとは?
序文でも書いた通り、ヴァイキングとは9世紀から11世紀中旬ごろまで、主に西ヨーロッパ一帯の脅威となった武装船団、あるいは海賊行為を生業としていた部族たちの通称です。
主にスカンジナビア半島やバルト海の沿岸地域に住んでいた北方系ゲルマン人が「ヴァイキング」として活動をしていたらしく、現在の研究の上では、そのような北方系ゲルマン人(ノルマン人)のことを指して「ヴァイキング」という言葉が使われることもあるようです。
多くのヴァイキングが略奪やそれに伴う虐殺行為に及んだことから、ヴァイキングは当時のヨーロッパにおいては黒死病と並ぶ厄介な脅威の一つでした。
しかしその一方で、ヴァイキングとの交易が、当時の混乱していた地中海交易の補完の役割を果たしていたことや、アイスランドとグリーンランドの発見など、一様に”害”とも言えない、人類の歴史になくてはならない存在でもあるのが、ヴァイキングという存在になっています。
ということで、次のトピックでは簡単にヴァイキングの隆盛と衰退の歴史を見ていきましょう。
ヴァイキングの歴史
「海賊」のイメージが強いヴァイキングですが、実際の歴史においてはどうだったのか?このトピックではヴァイキングの歴史について、簡単にまとめさせていただきました。
北欧から海へと乗り出す
ヴァイキングの時代は、793年に起こったリンデスファーン修道院への襲撃によって幕を開けました。彼らがそのような行為に及んだ原因は諸説がありますが、キリスト教との対立やヨーロッパへの侵略目的などの説、あるいは人口が過剰になったため、領土拡張の必要性があったなどの説が一般的です。
元々スカンジナビア半島周辺を勢力圏とする北方系ゲルマン人は、交易や略奪のために海に出ることがあったようですが、この頃になると船でこぎ出した先の地に前線基地を作り、その地に半ば定住する形で略奪を開始し始めたことが記録されています。
そしてこの定住に伴う略奪が、いわゆる「ヴァイキング」の始まりとなっているようです。
こうして9世紀初頭頃、西ヨーロッパ方面に勢力を伸ばし始めたヴァイキングは、カール大帝が指揮するフランク王国とデンマーク王ゴズフレズの小競り合いを背景にみるみるうちに勢力を拡大。その造船技術の優位性のまま、地中海方面に至るほどに南進を続け、ヨーロッパの非常に広い範囲を勢力圏に収めることに成功しました。
また、彼らは9世紀半ばにはセーヌ川河口流域にまで進出し、そこを足掛かりにイングランドにまで侵攻。911年にはこの事態を重く見たシャルル3世との交渉の末、周辺のノルマン人を指揮していた首長・ロロがノルマンディー公国を建国するに至るなど、ヨーロッパの中で北方系ゲルマンによる勢力を多数築き上げることとなりました。
各地への定住と、北方進出
ノルマンディー公国が勃興した911年ごろから、次第にヴァイキングたちは各所への入植や定住を始めていきました。そしてその一方、ノルウェーのヴァイキングたちは独自に北方にあたる北極海方面へと進出し、ヨーロッパにおける多くの新発見をもたらしました。
ヨーロッパにおけるノルマンディー公国への定住はもとより、ノルウェー系ヴァイキングにおいては、赤毛のエイリークによる985年のグリーンランド入植。エイリークの息子であるレイフ・エリクソンによるヴィンランド(現在のカナダ、ニューファンドランド島という説が有力)への入植などが、この時期におけるヴァイキングの主な活動となっています。
また、南イタリアに進出していたノルマン人たちは、その軍事的な能力によって勢力を拡大。1130年にシチリア王国を築き上げるなど、ヴァイキングが元となった国家が続々と打ち立てられることになったのもこの時期です。
このように、ヴァイキングとしてスカンジナビア半島を出たノルマン人たちは、ヨーロッパ各地に食い込み侵略していく形で勢力を拡大していったのでした。
ヴァイキングの終わり
こうして各地へ定住し、国家や集落を築いていくことが多くなったヴァイキングたちは、次第に「ヴァイキング」という集団ではなく、「ノルマン人」という民族として見られる機会が増えていきました。
そしてそれと同時に、いわゆる海賊や交易民的な性質は急速に失われて行き、その結果として「ヴァイキング」という武装船団や交易民の性質は、現地に同化していく形で失われることとなったのです。
そして彼らの発祥の地である北欧においても国家の形成が急速に推し進められていったことで、ヴァイキングは次第に様々な国家の国民に組み込まれ、交易民としての性質を失っていくことになりました。
こうしてヴァイキングと呼ばれる者たち、あるいはそう呼ばれたノルマン人たちの固有性は、13世紀半ばごろには完全に消滅してしまうこととなったのでした。
ヴァイキングの文化
「海賊」「虐殺者」「略奪者」というイメージが強いヴァイキングですが、実際はどうだったのでしょうか?
このトピックではヴァイキングの文化や、現代に残る彼らのイメージの正誤について解説していきたいと思います。
「毛皮のベストに角兜」は間違ったイメージ?
一般に「ヴァイキングとは?」と訊かれた際、皆さまがおおよそイメージするのは、
- 角付きの兜
- 革のベスト
- ずんぐりとした体で長いひげ
- 金髪でヨーロッパ系の、くっきりした目鼻立ち
などの要素であると思います。
しかしそれらのイメージのほとんどは、古代ローマ時代のケルト人のイメージから作られた部分が非常に大きく、実際に史実のヴァイキングの遺跡などからは、角付きの兜なんかは一つも出土していません。
また、髪の色もほとんどが茶色であったらしく、むしろヴァイキングとして語られる民族のほとんどは、ヨーロッパ系にアジア系や南ヨーロッパ系の遺伝子が混在した、割合他民族的な色合いの強い集団であったことも、最近の研究からわかってきています。
そのため、いわゆる「ステレオタイプのヴァイキング」のイメージは、現代においては完全に間違っていると言えるでしょう。
そもそも彼らは海賊ではなく商人だった?
海賊行為や虐殺のイメージが強く、粗暴で短絡的で野蛮な印象で語られるヴァイキングですが、実は彼らのほとんどは、略奪行為ではなく交易による商業や農業、あるいは漁業で日々の糧を稼ぐ、商人や農漁民だったことが記録されています。
ヨーロッパ、とりわけフランスやイギリスにとって、ヴァイキングの略奪や虐殺が非常に脅威的だったことや、その事実がことさらに資料に残されたことで「ヴァイキング=略奪者」のイメージが強くなってしまっていますが、実はヴァイキングにとっても略奪や虐殺は最終手段だったようで、むしろ真っ当な交易を望んで海に漕ぎ出したヴァイキングも少なくはありません。
むしろヨーロッパへの造船技術の伝来や、ノルマン・ヘルムに代表される武具の伝来、当時は混乱を極めていた地中海交易の補完の役割など、ヴァイキングの到来によってヨーロッパが受けた恩恵も、実のところ少なくはありません。
確かに「凄まじいまでの虐殺をいくつも引き起こした」という負の側面も目立つヴァイキングですが、一度先入観を取っ払って歴史を見ることで、新たな歴史の見方を得られるかと思います。
「ヴァイキング」という言葉の語源
「ヴァイキング(víkingr)」という言葉は、古ノルド語における「入江(vík)から来た者」を意味しています。この「vík」には「フィヨルド」の意味もあるため、転じてスカンジナビア半島の人々を指す意味だったとも言えるでしょう。
異説としては。北欧神話における『エッダ』や『サーガ』に「ヴァイキングに行く」という表現が存在していることから、「探検」「航海」「略奪」を意味する言葉だったという解釈も存在しています。