ヴァイキングとは?存在した時代や歴史、文化、船の種類まで解説

ヴァイキングの終わり

十字軍に参加したボエモン1世のように、ヴァイキングたちは次第にヨーロッパの文化に染まっていくことになった。

こうして各地へ定住し、国家や集落を築いていくことが多くなったヴァイキングたちは、次第に「ヴァイキング」という集団ではなく、「ノルマン人」という民族として見られる機会が増えていきました。

そしてそれと同時に、いわゆる海賊や交易民的な性質は急速に失われて行き、その結果として「ヴァイキング」という武装船団や交易民の性質は、現地に同化していく形で失われることとなったのです。

ヴァイキングとして海に出ることも少なくなり、次第に彼らはヨーロッパの文化に呑み込まれて消えていった。

そして彼らの発祥の地である北欧においても国家の形成が急速に推し進められていったことで、ヴァイキングは次第に様々な国家の国民に組み込まれ、交易民としての性質を失っていくことになりました。

こうしてヴァイキングと呼ばれる者たち、あるいはそう呼ばれたノルマン人たちの固有性は、13世紀半ばごろには完全に消滅してしまうこととなったのでした。

ヴァイキングの文化

「毛皮のベストと角付き兜」というイメージが強く残るヴァイキングだが、実際はどういった文化だったのか?

「海賊」「虐殺者」「略奪者」というイメージが強いヴァイキングですが、実際はどうだったのでしょうか?

このトピックではヴァイキングの文化や、現代に残る彼らのイメージの正誤について解説していきたいと思います。

「毛皮のベストに角兜」は間違ったイメージ?

よくあるヴァイキングのイメージだが、実はこれはほとんど間違っているらしい。

一般に「ヴァイキングとは?」と訊かれた際、皆さまがおおよそイメージするのは、

  • 角付きの兜
  • 革のベスト
  • ずんぐりとした体で長いひげ
  • 金髪でヨーロッパ系の、くっきりした目鼻立ち

などの要素であると思います。

ケルトの兵士のイメージで描かれたイラスト。確かにヴァイキングのイメージと通じるところが大きい。

しかしそれらのイメージのほとんどは、古代ローマ時代のケルト人のイメージから作られた部分が非常に大きく、実際に史実のヴァイキングの遺跡などからは、角付きの兜なんかは一つも出土していません。

また、髪の色もほとんどが茶色であったらしく、むしろヴァイキングとして語られる民族のほとんどは、ヨーロッパ系にアジア系や南ヨーロッパ系の遺伝子が混在した、割合他民族的な色合いの強い集団であったことも、最近の研究からわかってきています。

そのため、いわゆる「ステレオタイプのヴァイキング」のイメージは、現代においては完全に間違っていると言えるでしょう。

そもそも彼らは海賊ではなく商人だった?

野蛮なイメージが強いヴァイキングだが、実はそのような側面はごく一部だったようで…?

海賊行為や虐殺のイメージが強く、粗暴で短絡的で野蛮な印象で語られるヴァイキングですが、実は彼らのほとんどは、略奪行為ではなく交易による商業や農業、あるいは漁業で日々の糧を稼ぐ、商人や農漁民だったことが記録されています。

ヨーロッパ、とりわけフランスやイギリスにとって、ヴァイキングの略奪や虐殺が非常に脅威的だったことや、その事実がことさらに資料に残されたことで「ヴァイキング=略奪者」のイメージが強くなってしまっていますが、実はヴァイキングにとっても略奪や虐殺は最終手段だったようで、むしろ真っ当な交易を望んで海に漕ぎ出したヴァイキングも少なくはありません。

中世ヨーロッパで普及したこの兜の形状も、元はヴァイキングによってもたらされた技術。

むしろヨーロッパへの造船技術の伝来や、ノルマン・ヘルムに代表される武具の伝来、当時は混乱を極めていた地中海交易の補完の役割など、ヴァイキングの到来によってヨーロッパが受けた恩恵も、実のところ少なくはありません。

確かに「凄まじいまでの虐殺をいくつも引き起こした」という負の側面も目立つヴァイキングですが、一度先入観を取っ払って歴史を見ることで、新たな歴史の見方を得られるかと思います。

「ヴァイキング」という言葉の語源

彼らの主な活動場所を考えるに、その語源もまた「海」や「入江」にあった。

「ヴァイキング(víkingr)」という言葉は、古ノルド語における「入江(vík)から来た者」を意味しています。この「vík」には「フィヨルド」の意味もあるため、転じてスカンジナビア半島の人々を指す意味だったとも言えるでしょう。

異説としては。北欧神話における『エッダ』や『サーガ』に「ヴァイキングに行く」という表現が存在していることから、「探検」「航海」「略奪」を意味する言葉だったという解釈も存在しています。

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