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百年戦争とは?原因や勝者、登場人物を年表付きで簡単に解説

「百年戦争ってどんな戦争?」
ジャンヌ・ダルクが活躍した戦争とは聞いたけど…」
「なんで100年もそもそも戦争したんだろう?」

そんな疑問がでてきませんか?百年戦争は簡単にいうと、フランスとイギリスが領土と王位継承をめぐって約100年間戦った争いです。非常に有名な戦いであり、世界史でも必ず覚えないといけない事柄ですが実際にどのような戦争だったのかは、実はあまり知られていない戦争です。

この記事では百年戦争の背景や戦い、その後の影響まで解説をしていきます。非常に複雑な事情が絡み合った戦争ですが、ポイントを押さえて解説するので是非参考にしてください。

百年戦争とは何か?

百年戦争の絵画

百年戦争は、1337年~1453年までのイギリス王とフランス王のフランス領内で行われた戦争です。1337年にイギリスのエドワード3世がフランス国王へ挑戦状を送ったことを発端とし、1453年のボルドー陥落までを指します。途中疫病の流行などがあり休戦状態の時期がありましたが、決着がつくのに100年以上を有した中世ヨーロッパを代表する戦争となりました。

百年戦争の原因

「イングランド王室紋章」エドワード3世はかなりの野心家だった

そもそも百年戦争は何故起きたのでしょうか?それは、イングランド王エドワード3世が「領土を拡大したい」「新兵器を試したい」という動機が大きいといえるでしょう。その為にフランスの王位継承権が自身にもあると主張し、宣戦布告をしたのです。フランス側としては非常に迷惑な内容でした。

一度エドワード3世が王位継承権の主張をしフランス側は拒否をしていますが、「それならば実力行使で」と始まったのが百年戦争です。新兵器を発明していたエドワード3世の自信も、後押ししたと考えられています。

百年戦争が勃発した背景

百年戦争が何故起こったのかは、時代を紐解く必要がある

イングランド王エドワード3世は、何故王位継承権を主張したのか?当然そういった疑問が出てきますが、そのことを説明するには、まず歴史を300年程さかのぼらないといけません。長くなりますが、できるだけ要点を纏めて解説していきます。

イングランド王国がフランスに領土を持っていた

イングランド王朝開祖のエドワード1世

まず戦争を始めたイングランドのエドワード3世の祖父エドワード1世は、フランス国内のノルマンディーとイングランドを統合し、両方の領土を有していました。エドワード1世は、フランス王の臣下であるノルマンディー公でしたが、当時イングランドにいた勢力を追い出して、イングランドの土地とノルマンディを治めていたのです。

フランス王国から見たら、イングランド王家は臣下でした。しかし息子のエドワード2世がフランス王女と婚姻したことなども影響し、フランス領内でのイングランド王家の影響は高まっていきました。この時代はイングランド国の王ですが、「心はフランス人」といった状態でした。

フランス王位継承問題

フランス王「シャルル4世」

当時のフランス王シャルル4世が崩御したときに、シャルル4世には男子の王位継承者がいませんでした。この時、イングランド王・エドワード3世の母が、フランス王シャルル4世の妹イザベラだったために自分こそがフランス王になるべきだと主張したのです。

エドワード3世と、シャルル4世の関係性が分かる家系図

シャルル4世にはフィリップという従妹がおり、1328年にフィリップ6世として即位しエドワード3世も一度は了承したものの、エドワード3世に対して領土を没収すると宣言されたことが決定打となり、1337年に百年戦争が始まることとなったのです。

イングランドとフランスの「王位継承権」の違い

イングランド王エドワード3世

百年戦争に発展した背景には、イングランドとフランスの王位継承の権利の違いがありました。イングランドでは「父方、母方どちらでも継承可能」なのですが、フランスは「女性は王位継承権を所有しないので母方からの男子の継承権は認められない」なのです。イングランド人の王を拒んだフランス貴族が、その理由によりエドワード3世の主張を拒んだ経緯があります。

イングランドの新兵器

グレートブリテン島の伝統武器「ロングボウ」

領地目的で王位に着きたい目的とは別に、イングランド側は戦争をしたい理由がありました。それは、「新兵器を試したかった」といわれています。その為に戦争を言い渡されるフランスもとばっちりもいいところですが、エドワード3世は好戦的で知られていたといいます。

この頃イングランドの伝統武器ロングボウが改良され、エドワード3世は戦闘で試してみたかったのです。ロングボウの威力は凄まじく、鎧を突き破る威力だったといいます。この武器によりフランス軍は多くの被害者を出すことになりました。

勝者は?百年戦争の結末

最終的にはフランス内のイングランド勢力を追い出すことに成功

百年戦争の序盤は新兵器「ロングボウ」の活躍もあり、イングランドが優勢でした。イングランドは最初の「クレシーの戦い」や、黒死病の流行後に再開された「アジャンクールの戦い」に勝利しています。一度は「フランス王」の権利を奪うまでに至りました。

しかし後半に英雄「ジャンヌ・ダルク」が登場し、フランスは大逆転をし勝利を収めます。最後の「カスティヨンの戦い」では、フランスも新兵器「大砲」を投入し、イングランドを破っています。これによりフランスはイングランドから大部分の国土を取り返し、フランスの勝利で長い戦争は終わったのです。

百年戦争の出来事を年表形式で解説

兎に角長く続いた戦争に両国とも疲弊していたという

百年戦争が勃発してからの100年間は、何度も合戦が行われ泥沼化していました。その上に、疫病が流行り一時休戦の事態なども起こっています。今から百年戦争の流れを時系列に見ていきます。

1346年:クレシーの戦い

クレシーの戦いはロングボウが勝敗の決め手となった

クレシーの戦いは、1346年に百年戦争の一環として、フランス北部のクレシー=アン=ポンティユー近郊で行われた戦いです。エドワード3世率いるイングランド兵約1万2千人で、フィリップ6世率いる3万~4万の兵を打ち破ったといわれています。

フランス軍は幾度となく攻撃を仕掛けたといいますが、イングランドの勝利に終わりました。勝敗を決めたのは、イングランド軍の「ロングボウ部隊」でした。フランスは「クロスボウ」が主力だったのですが、クロスボウは1分間に1,2回しか弓を射ることができなかったために、イングランドのロングボウ部隊に劣勢となってしまったのです。

クレシーの戦いでの接近戦

この戦いの被害は甚大で、フランス軍の死傷者は1万2千程度といわれています。その中の1割が騎士であり、11人のプリンスが含まれていました。フィリップ6世自身も負傷しています。一方イングランド側の被害は150人~250人といいますが、この数字は過小評価だという意見も多く実質はもう少し被害があったと考えられています。

しかし間違いないことは、イングランド兵の被害がフランス兵よりもずっと少なかったということでしょう。この戦いでフランス側は、フィリップ6世の弟アランソン伯シャルル2世なども犠牲になりました。

1356年:ポワティエの戦い

ポワティエの戦い

1356年にエドワード黒太子率いるイングランド軍と、フランス軍によってポワティエの戦いという決戦が起こります。この戦いはエドワード3世の息子が、フランス軍を攻撃したことにより始まりました。この戦いもイングランド軍が勝利を治めています。

勝因はイングランド軍がフランス軍に、まるで撤退しているような行動を起こしフランス軍を勘違いさせることに成功したからといわれています。フランス軍が攻撃したのを見計らって、イングランド軍がロングボウを雨のように射り、フランス軍騎手の馬を狙い陣形を崩させたました。そして両軍が近づいてフランス軍を取り囲み攻撃を仕掛けています。

エドワード黒太子は黒っぽい鎧を着ていたための名称といわれている

結果当時のフランス王であるジャン2世は戦いに敗れて捕虜になり、その後一旦は解放されたものの再び捕らえられ死去し、フランスはシャルル5世が継ぐこととなりました。この戦いにより、フランスは軍事だけでなく、経済的にも大打撃を受けています。

イングランドは国王ジャン2世の身代金をフランス側に要求しますが、王とした場合の身代金を要求すると「フランス王」として認めてしまうことにもなるため、かなりジレンマに陥っていたという逸話も残っています。

1340年:黒死病が大流行する

肌が黒くなってしまうため「黒死病」といわれ恐れられていた

百年戦争はイングランド優勢で推移していました。しかし、1340年代にヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行し、イングランドとフランスで大量の死者がでています。ピークは1348年といわれ、ヨーロッパの人口の約3分の1が死亡したといわれています。これにより、約50年間休戦状態となりました。

1358年:ジャックリーの反乱が起きる

ジャックリーの反乱の様子

貴族たちは少なくなった農民から更に税金を取ろうとした為に、各地で農民反乱が起きました。1358年にフランスの農民が反乱を起こし、貴族の館を襲撃するジャックリーの反乱が起きています。

叛乱した農民たちは貴族・騎士・郷士を標的にして殺害し、邸宅や城を破壊、略奪しました。農民軍のスローガンは、「旦那たちを倒せ」であり領主は殺し、女は凌辱、子供は串刺しにして丸焼きにしたともいわれています。

農村は荒廃し、とても戦争を行える状態ではなかった

しかし騎兵隊により反乱軍は蹂躙され、あっさり敗北し、貴族側の徹底した報復が行われました。これにより農村は荒廃し経済は困窮し、とてもフランスは百年戦争どころではなかったのです。

1381年:ワット・タイラーの乱

ワット=タイラーの反乱軍とリチャード2世

イングランドは度重なる戦争により財政が赤字であった為、王は農民に対し人頭税を課税強化しました。その上に黒死病が大流行し、領主は益々農奴制を強化したのです。これに不満を抱いた農民が、指導者にワット=タイラーを抱えて反乱を起こしています。反乱軍は一時ロンドンを占拠しました。

首謀者ワット=タイラーが切り殺される場面を描いたもの

結局この反乱も鎮圧され、首謀者のワット=タイラーもロンドン市長により殺害されてしまいます。このような時代背景があり、イングランドの方も財政赤字と農民反乱で百年戦争どころではありませんでした。

1415年:アジャンクールの戦い

アジャンクールの戦い

黒死病が落ち着いた1415年に、アジャンクールの戦いがありました。この戦いもイングランドが大勝しています。戦いはヘンリー5世率いるイングランド軍7千騎、対するフランスは2万の重装騎兵で対抗しました。数が優位なフランス兵が敗北した要因は、イギリスの「ロングボウ部隊」でした。

フランス騎士団が馬で攻めてくるのに対し、遠くから射る「ロングボウ部隊」にはかなわなかったのです。騎士たちは恰好の的となり、多くの兵士たちが犠牲になっています。この戦いでフランス貴族の4割が死亡したといわれています。多くの騎士がイングランドの捕虜になりました。

捕虜の殺害は騎士道精神に反するといわれている

この当時捕虜を殺すことは騎士道に反することだったのですが、ヘンリー5世は騎士と関係ない農民出身の長弓兵に捕虜を射殺させたという逸話も残っています。アジャンクールの戦いで勝利を収めたイギリスは、フランスに休戦協定を提案するに至りました。

1420年:トロワ条約を終結する

ヘンリー6世は僅か生後半年で「フランス王及びイングランド王」となった

1420年にイングランドはフランスとの間でトロワ条約を締結させました。内容は「シャルル6世亡き後、フランス王位はヘンリー5世あるいは、ヘンリー5世の息子をフランス王にする」というイングランド側にとって有利になる条約でした。

その後シャルル6世、ヘンリー5世が亡くなったために、わずか生後半年の息子ヘンリー6世が「フランス王及びイングランド王」として即位しました。そしてヘンリー5世の弟のベッドフォード公ジャンが摂政となり、ロワール川以北でシャルル7世に忠誠を尽くす最後の町オルレアンを包囲することになるのです。

1428年:オルレアン包囲網

オルレアン包囲戦で活躍するジャンヌ・ダルク

長らくイングランドに煮え湯を飲まされていたフランスですが、1428年から1429年にかけての「オルレアン包囲網」で決定的な勝利を収めました。この勝利はフランス軍部隊を率いて戦った「ジャンヌ・ダルク」の後援を受けてのものでした。

ジャンヌ・ダルクは「この戦いでフランス王を助けよ」と神の啓示を受けたとし、神や天使の姿が見えたと主張したのです。ジャンヌ・ダルクは1429年、フランス軍を率いてイングランド軍と戦いました。ジャンヌはフランス軍が必要とする物資を運ぶ役割を担い、軍の士気を高めるように務めた結果、長年敗戦を重ねていたフランス軍がイングランド軍に勝利したのです。

1453年:カスティヨンの戦い

カスティヨンの戦い

百年戦争の最後の戦いが、1453年に起こったカスティヨンの戦いです。この戦いでフランス軍が勝利を収め、長い百年戦争に終止符を打ったのです。この戦いは、イングランドがカスティヨンにてフランス軍を攻撃しますが、フランス軍の大砲を使った戦法に直面し、まったく大砲に歯が立たずに苦戦を強いられました。

苦戦のさなかにフランス騎士団も到着し、イングランドの指揮官シュルーズベリー伯が大砲に当たって戦死したため、フランス軍の勝利となったのです。これをもって百年戦争は最終的にフランス側が勝利をして、長く続いたイングランドとフランスの戦争は終わることとなりました。

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