百年戦争の出来事を年表形式で解説
百年戦争が勃発してからの100年間は、何度も合戦が行われ泥沼化していました。その上に、疫病が流行り一時休戦の事態なども起こっています。今から百年戦争の流れを時系列に見ていきます。
1346年:クレシーの戦い
クレシーの戦いは、1346年に百年戦争の一環として、フランス北部のクレシー=アン=ポンティユー近郊で行われた戦いです。エドワード3世率いるイングランド兵約1万2千人で、フィリップ6世率いる3万~4万の兵を打ち破ったといわれています。
フランス軍は幾度となく攻撃を仕掛けたといいますが、イングランドの勝利に終わりました。勝敗を決めたのは、イングランド軍の「ロングボウ部隊」でした。フランスは「クロスボウ」が主力だったのですが、クロスボウは1分間に1,2回しか弓を射ることができなかったために、イングランドのロングボウ部隊に劣勢となってしまったのです。
この戦いの被害は甚大で、フランス軍の死傷者は1万2千程度といわれています。その中の1割が騎士であり、11人のプリンスが含まれていました。フィリップ6世自身も負傷しています。一方イングランド側の被害は150人~250人といいますが、この数字は過小評価だという意見も多く実質はもう少し被害があったと考えられています。
しかし間違いないことは、イングランド兵の被害がフランス兵よりもずっと少なかったということでしょう。この戦いでフランス側は、フィリップ6世の弟アランソン伯シャルル2世なども犠牲になりました。
1356年:ポワティエの戦い
1356年にエドワード黒太子率いるイングランド軍と、フランス軍によってポワティエの戦いという決戦が起こります。この戦いはエドワード3世の息子が、フランス軍を攻撃したことにより始まりました。この戦いもイングランド軍が勝利を治めています。
勝因はイングランド軍がフランス軍に、まるで撤退しているような行動を起こしフランス軍を勘違いさせることに成功したからといわれています。フランス軍が攻撃したのを見計らって、イングランド軍がロングボウを雨のように射り、フランス軍騎手の馬を狙い陣形を崩させたました。そして両軍が近づいてフランス軍を取り囲み攻撃を仕掛けています。
結果当時のフランス王であるジャン2世は戦いに敗れて捕虜になり、その後一旦は解放されたものの再び捕らえられ死去し、フランスはシャルル5世が継ぐこととなりました。この戦いにより、フランスは軍事だけでなく、経済的にも大打撃を受けています。
イングランドは国王ジャン2世の身代金をフランス側に要求しますが、王とした場合の身代金を要求すると「フランス王」として認めてしまうことにもなるため、かなりジレンマに陥っていたという逸話も残っています。
1340年:黒死病が大流行する
百年戦争はイングランド優勢で推移していました。しかし、1340年代にヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行し、イングランドとフランスで大量の死者がでています。ピークは1348年といわれ、ヨーロッパの人口の約3分の1が死亡したといわれています。これにより、約50年間休戦状態となりました。
1358年:ジャックリーの反乱が起きる
貴族たちは少なくなった農民から更に税金を取ろうとした為に、各地で農民反乱が起きました。1358年にフランスの農民が反乱を起こし、貴族の館を襲撃するジャックリーの反乱が起きています。
叛乱した農民たちは貴族・騎士・郷士を標的にして殺害し、邸宅や城を破壊、略奪しました。農民軍のスローガンは、「旦那たちを倒せ」であり領主は殺し、女は凌辱、子供は串刺しにして丸焼きにしたともいわれています。
しかし騎兵隊により反乱軍は蹂躙され、あっさり敗北し、貴族側の徹底した報復が行われました。これにより農村は荒廃し経済は困窮し、とてもフランスは百年戦争どころではなかったのです。