百年戦争とは?原因や勝者、登場人物を年表付きで簡単に解説

1381年:ワット・タイラーの乱

ワット=タイラーの反乱軍とリチャード2世

イングランドは度重なる戦争により財政が赤字であった為、王は農民に対し人頭税を課税強化しました。その上に黒死病が大流行し、領主は益々農奴制を強化したのです。これに不満を抱いた農民が、指導者にワット=タイラーを抱えて反乱を起こしています。反乱軍は一時ロンドンを占拠しました。

首謀者ワット=タイラーが切り殺される場面を描いたもの

結局この反乱も鎮圧され、首謀者のワット=タイラーもロンドン市長により殺害されてしまいます。このような時代背景があり、イングランドの方も財政赤字と農民反乱で百年戦争どころではありませんでした。

1415年:アジャンクールの戦い

アジャンクールの戦い

黒死病が落ち着いた1415年に、アジャンクールの戦いがありました。この戦いもイングランドが大勝しています。戦いはヘンリー5世率いるイングランド軍7千騎、対するフランスは2万の重装騎兵で対抗しました。数が優位なフランス兵が敗北した要因は、イギリスの「ロングボウ部隊」でした。

フランス騎士団が馬で攻めてくるのに対し、遠くから射る「ロングボウ部隊」にはかなわなかったのです。騎士たちは恰好の的となり、多くの兵士たちが犠牲になっています。この戦いでフランス貴族の4割が死亡したといわれています。多くの騎士がイングランドの捕虜になりました。

捕虜の殺害は騎士道精神に反するといわれている

この当時捕虜を殺すことは騎士道に反することだったのですが、ヘンリー5世は騎士と関係ない農民出身の長弓兵に捕虜を射殺させたという逸話も残っています。アジャンクールの戦いで勝利を収めたイギリスは、フランスに休戦協定を提案するに至りました。

1420年:トロワ条約を終結する

ヘンリー6世は僅か生後半年で「フランス王及びイングランド王」となった

1420年にイングランドはフランスとの間でトロワ条約を締結させました。内容は「シャルル6世亡き後、フランス王位はヘンリー5世あるいは、ヘンリー5世の息子をフランス王にする」というイングランド側にとって有利になる条約でした。

その後シャルル6世、ヘンリー5世が亡くなったために、わずか生後半年の息子ヘンリー6世が「フランス王及びイングランド王」として即位しました。そしてヘンリー5世の弟のベッドフォード公ジャンが摂政となり、ロワール川以北でシャルル7世に忠誠を尽くす最後の町オルレアンを包囲することになるのです。

1428年:オルレアン包囲網

オルレアン包囲戦で活躍するジャンヌ・ダルク

長らくイングランドに煮え湯を飲まされていたフランスですが、1428年から1429年にかけての「オルレアン包囲網」で決定的な勝利を収めました。この勝利はフランス軍部隊を率いて戦った「ジャンヌ・ダルク」の後援を受けてのものでした。

ジャンヌ・ダルクは「この戦いでフランス王を助けよ」と神の啓示を受けたとし、神や天使の姿が見えたと主張したのです。ジャンヌ・ダルクは1429年、フランス軍を率いてイングランド軍と戦いました。ジャンヌはフランス軍が必要とする物資を運ぶ役割を担い、軍の士気を高めるように務めた結果、長年敗戦を重ねていたフランス軍がイングランド軍に勝利したのです。

1453年:カスティヨンの戦い

カスティヨンの戦い

百年戦争の最後の戦いが、1453年に起こったカスティヨンの戦いです。この戦いでフランス軍が勝利を収め、長い百年戦争に終止符を打ったのです。この戦いは、イングランドがカスティヨンにてフランス軍を攻撃しますが、フランス軍の大砲を使った戦法に直面し、まったく大砲に歯が立たずに苦戦を強いられました。

苦戦のさなかにフランス騎士団も到着し、イングランドの指揮官シュルーズベリー伯が大砲に当たって戦死したため、フランス軍の勝利となったのです。これをもって百年戦争は最終的にフランス側が勝利をして、長く続いたイングランドとフランスの戦争は終わることとなりました。

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