百年戦争で活躍した人物
1337年にイングランドとフランスの「親族間で領地の権利を争った揉め事」として始まった戦争は、いつのまにか百年以上という年月をかけて、フランスの勝利で終止符が打たれました。百年という長い期間の間で沢山の人物が関わっていますが、その中でも特に主要な人物を時系列に紹介していきます。
エドワード三世
イングランド王であり、百年戦争を始めるきっかけを作った人物です。自身の母がフィリップ4世の娘のイザベラであったために、母の血を根拠にフランス王位を請求し、フランスに宣戦布告したことにより百年戦争が勃発しました。
結果百年戦争によって軍事的な成功を収め、イングランドの国力から見て相応以上の成果を上げることに成功しています。この功績により「イングランド王国」という認識を近隣諸国に与えた人物として高く評価されることとなりました。
エドワード黒太子
百年戦争 の前半期に活躍した人物で、エドワード3世の長男です。黒い鎧を着ていたため「黒太子」と呼ばれました。1356年のポワティエの戦いで「長弓隊」という新しい部隊を率い、4倍の兵力差があったフランス軍を破り、国王ジャン2世を捕虜としています。
ポワティエの戦いでアキテーヌ地方の支配権を獲得したエドワード3世は、その地の支配権をエドワード黒太子に与えています。イングランドの領土拡大に大きく貢献した人物です。
ヘンリー5世
トロワ条約を締結し、フランス王位継承権を認めさせた王です。フランス王シャルル6世の娘キャサリンと結婚し、イングランドの絶頂期を作った人物でした。若年から父を助け、国内平定に貢献したともいいます。
病弱な義父シャルル6世よりも長生きをする自信があったために、「次のフランス王」と取り決めましたが、赤痢にかかり皮肉にもシャルル6世が亡くなる2か月前に病死しました。もし長生きをしていたら、大幅にヨーロッパの歴史が変わっていたかもしれません。
ジャンヌ・ダルク
ジャンヌ・ダルクは百年戦争の中でも、特に有名な女性です。百年戦争の連敗で危機的状況だったフランスを救い、オルレアン包囲網においてフランス軍を勝利に導きました。しかしパリ奪還に失敗しイングランドの捕虜になり、裁判の結果「異端者」とみなされ火刑に処されてしまいました。
しかし百年戦争後の復権裁判で有罪が覆り無罪が確定され、非業の死を遂げた「聖女」としてフランスで語り継がれるようになります。そして名誉回復裁判から500年たった1920年に、ローマ教皇から聖女として正式に認められることになりました。
百年戦争の影響
1337年~1453年まで続いた百年戦争は、現在のイングランドとフランスの国境線が固まり、二国の国のあり方を決める戦争となりました。またその他にも、百年戦争は両国に大きな影響を及ぼしています。その影響とはどのようなものだったのか、紹介していきます。
フランスへの影響
フランスは百年戦争の終わりごろまで王権が集中しておらず、貴族たちもバラバラに動いていました。しかし百年戦争によって王室の権威は高まり、強固なものとなったのです。そして結果的に「自国とは何か?」というアイデンティティを得ることとなりました。
現在でも「ジャンヌ・ダルク」は愛国心の象徴として敬愛されています。また、百年戦争中にかき集めた食材で作った煮込み料理「カスレ」は、現在でも郷土愛を掻き立てる食事として食されているそうです。
イングランドへの影響
百年戦争の最終的な敗北により、フランス内のイングランド領はほぼ失われました。しかしイングランドの中で「愛国心」が芽生えたきっかけが、百年戦争だといわれています。この百年間の間にイングランドでは、フランス語ではなく英語で話すようになりました。
そしてイギリスでは現在も、「ヘンリー5世」が愛国心や強さの象徴となりました。シェイクスピアの「ヘンリー5世」における「聖クリスピンの祭日」の演説は、愛国心や戦意昂揚の象徴として何度も引用されています。
百年戦争に関するまとめ
今回「百年戦争」を執筆するにあたり、百年戦争をじっくり紐解いてみましたが、筆者は「両国の利権争いが発展して拗れた戦争」と解釈しました。戦争のきっかけが領主の利害であったり、新兵器の試し合いだったりと領民はたまったものではないなという感想です。
その長く拗れた戦争を紐解いていきましたが、一つ一つの戦いがそれだけで記事ができそうなぐらい深い、両国の因縁が存在します。この戦いで活躍した人は両国とも現在でも英雄とされ、愛国心のシンボルになったりしています。しかしその英雄の中には、戦争のために命を落とした人もいたということを忘れずに、二度と戦争が行われることがないように私たちも心がけていきたいと思った次第です。
この記事で「百年戦争」をより知ったという方がいれば嬉しく思います。長い記事に付き合っていただきありがとうございました。