小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

ロシア革命とは?原因や指導者、その後の影響を分かりやすく簡単解説

「ロシア革命ってどんな革命なんだろう?」
「革命の指導者レーニンはどんな人?」
「ロシア革命と日本の関係は?」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っているかもしれません。ロシア革命とは主に1917年に起きた二月革命と十月革命をまとめて呼ぶときの名称です。これらの革命によりロシアを300年にわたって支配してきたロマノフ朝が滅亡しました。

ロシア革命の指導者レーニンは、皇帝や貴族など一部の特権階級に富が集中することに不満を持ち、第一次世界大戦で苦しむ民衆の支持を得て社会主義革命を実行します。そして、世界初の社会主義国家であるソヴィエト連邦を成立させました。日本はロシア革命の混乱に乗じてシベリア出兵を行います。

今回は、ロシア革命の内容や指導者、原因、エピソード、革命の流れなどについてわかりやすく解説します。

ロシア革命とは?

3度起きているロシア革命

世界史で単に「ロシア革命」というと1917年に起きた二月革命と十月革命を指すことがほとんどですが、実のところ、3度に渡って起きています。それぞれどのような革命だったかを解説していきます。

血の日曜日事件(第一次ロシア革命)

1917年に起きた二つの革命の10年以上前に、第一次ロシア革命と呼ばれた事件がありました。それが血の日曜日事件です。

血の日曜日事件を描いた絵画

日露戦争中の1905年、首都ペテルブルクで労働者たちがデモをおこなっていました。彼らは皇帝ニコライ2世に対し労働者の待遇改善や憲法制定、日露戦争の停戦などを要求します。10万人以上に膨れ上がったデモ隊は皇帝の宮殿の人である「冬宮」をめざします。

血の日曜日事件でデモを主催した司祭ガポン

ロシア正教の司祭であるガポンに率いられたデモ隊は武装せず、平和的なデモで皇帝に要望を請願しました。しかし、宮殿を警備していたコサック兵は武力で弾圧しました。

弾圧を知った民衆は皇帝が悪い官僚を懲らしめてくれるという希望を失い、その失望から各地で暴動をおこします。こうした暴動は軍によって鎮圧されていきました。これを第一次ロシア革命といいます。

二月革命(三月革命)

二月革命(三月革命)とは、民衆のデモによりロマノフ朝が倒された革命のことです。ロシアでは1613年から300年にわたってロマノフ朝の支配が続いていました。しかし、第一次世界大戦の参戦で国民生活が極度に悪化し、人々は皇帝に対し強い不満を抱きます。

二月革命でデモ隊が行進したペトログラードのネフスキー大通り

1917年3月(ロシア暦2月)、帝国の首都ペトログラードで食料の配布を要求する大規模なデモが発生しました。政府は警察や軍を動員してデモの鎮圧を図ります。しかし、デモ隊は武力鎮圧にひるまず、要求をつづけました。

そして、ついに軍隊の一部が民衆に味方したことをきっかけに、首都にいた部隊のほとんどが皇帝と政府に反旗を翻しました。これをうけ、皇帝ニコライ2世は退位しロマノフ朝が滅亡しました。

十月革命(十一月革命)

十月革命とはレーニンを中心とするボリシェヴィキが起こした社会主義革命のことです。二月革命後、ブルジョワ中心の臨時政府が作られました。臨時政府の首相となったのはケレンスキーという人物です。

1917年4月、亡命先から帰国したボリシェヴィキの指導者レーニンは「四月テーゼ」を発表し、すべての権力を兵士や労働者の団体であるソヴィエトが握るべきだと主張しました。これ以後、臨時政府とソヴィエトの二重権力状態が続きます。

臨時政府がおかれた冬宮殿に突入する様子の再現

その一方、臨時政府は第一次世界大戦を継続します。そのため国民の不満が高まりました。国民の不満を背景に、レーニンは1917年10月24日(ロシア暦11月6日)にボリシェヴィキを率いて臨時政府を打倒します。そして、世界初の社会主義政権を打ち立てました。

革命が起きたのは首都ペトログラード

ペトログラード(ペテルブルク)を建設した皇帝ピョートル1世

ロシア革命の舞台となったのは首都ペトログラードです。ペトログラードは1712年に皇帝ピョートル1世によって作られた都で、ロマノフ朝ロシア帝国の首都となりました。正式名称はサンクト=ペテルブルクといいます。

第一次世界大戦がはじまると、ドイツ風のブルクを嫌い、ロシア風のグラードを用いたペトログラードと改称されます。第一次世界大戦がはじまると、近代化が遅れていたロシア軍はドイツ軍に敗退を重ねます。その結果、各地で物資が不足しました。

最も物資不足が深刻となったのは人口が多い首都ペトログラードです。1917年3月にペトログラードの女性たちが「パンをよこせ!」とデモを起こしたことがロシア2月革命のきっかけとなりました。皇帝政府がデモ隊に発砲したことで革命に発展したといってもよいでしょう。

指導者はレーニン

ロシア革命の指導者レーニン

レーニンはボリシェヴィキを指導しロシア革命を成功させ世界初の社会主義国家を作り上げた人物です。レーニンの本名はウラジーミル・ウリヤーノフ。レーニンはペンネームで、「レナ川の人」を意味する言葉です。

一時、ロシア政府の弾圧によりシベリア送りにされていましたが、その地でクルスプカヤと結婚しました。その後も、社会主義運動を継続します。

十月革命を主導したボリシェヴィキを現した絵

社会主義革命を起こすにあたって、レーニンは少数の革命家の集団である「党」が、大衆を指導して活動するべきだと考えました。彼の考えを支持する人々をボリシェヴィキといいます。レーニンは彼らを率いて社会主義政権を打ち立てようとしました。

ロシア政府はレーニンを危険人物と考え逮捕しようとします。そのため、彼はロシアからスイスに亡命しました。1917年、二月革命の成功を聞いたレーニンは亡命先のスイスから帰国します。そして、「四月テーゼ」を訴え社会主義革命を貫徹するべきだと主張しました。

1917年11月、レーニンは二月革命後に成立していた臨時政府を打倒する十月革命を起こします。これにより、ロシアでは世界初の社会主義国家が誕生しました。

革命の結果、ロマノフ朝は滅亡

1913年に行われたロマノフ朝300周年の記念式典

ロシア革命の結果、300年にわたってロシアを支配したロマノフ朝は滅亡しました。ロマノフ朝は皇帝に権力が集中する皇帝専制(ツァーリズム)で国を治める王朝です。皇帝ニコライ2世は首都ペトログラードで起きたデモの武力弾圧を指示しました。

そのため、人々の反感はさらに強まりロシア全土で民衆蜂起がおきます。そして1917年3月15日、皇帝ニコライ2世は退位を宣言しました。帝位を譲られた弟のミハイル・ロマノフが即位を拒んだため、ロマノフ朝は滅亡します。

ロマノフ朝最後の皇帝となったニコライ2世

退位したニコライ2世とその家族はシベリア西部のトボリスクに流刑とされます。十月革命で臨時政府が打倒されると、ニコライ一家はエカテリンブルクに移送され、この地で処刑されました。

ロシア革命の原因は?

皇帝や貴族に富が集中したから

ロシア革命の原因の一つは皇帝や貴族に富が集中し、貧富の差が大きかったことです。ロシアではロマノフ家の皇帝による皇帝専制(ツアーリズム)が行われてきました。そのため、富や権力は皇帝やその側近、あるいは貴族などに集中してしまいます。

同じころの西洋諸国が市民革命や産業革命を達成し、市民階級(ブルジョワジー)が成長していたのに比べると、ロシアはかなり後進的だったといえるでしょう。

農奴解放により領主のもとを去るもと農奴たち

では、一般庶民はどんな状態だったのでしょうか。まず、農民たちは1861年の農奴解放令まで移動の自由すらありませんでした。解放後も、大勢の農民は貧困の中にありました。また、労働者は低賃金で劣悪な環境での労働を強いられていました。

戦争で国民が疲弊したから

ロシアはサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦に連合国として参戦しました。これにより、ロシアはドイツ・オーストリアと戦闘状態に入ります。戦争がはじまると、ロシア軍はドイツ領東プロイセンに攻め込みました。

タンネンベルクの戦いに勝利したドイツのヒンデンブルク将軍

戦闘開始当初はロシア軍が優勢でドイツ領深く攻め込みます。しかし、戦線が伸び切ったところをドイツ軍に反撃され、タンネンベルクの戦いで大敗しました。この戦いで、ロシア軍は12万人以上の大損害を出します。

以後、ドイツ軍はロシア領深く攻め込みました。ロシア軍は形勢を逆転できず苦戦を続けます。その結果、ロシア国内の物流が圧迫され物資不足が深刻化しました。ロシア国民は食糧難・物資不足に苦しみ、一刻も早く戦争が終結することを願うようになります。

社会主義運動が盛り上がったから

ロシアでは19世紀末に社会主義運動がもりあがりました。1903年から本格的に活動を始めた社会主義政党のロシア社会民主労働党は、路線の対立からボリシェヴィキとメンシェヴィキに分かれます。

ボリシェヴィキは、ロシアで労働者や農民を解放するため暴力的な革命が必要であり、その実行は少数の指導者が中心となるべきだと考えました。ボリシェヴィキの中心人物はレーニンです。

メンシェヴィキの指導者マルトフ

それに対し、マルトフらメンシェヴィキは大衆の支持がなければ革命は達成できないとして、民主的な大衆政党を目指すべきと考えます。ロシア社会民主労働党は最終的にボリシェヴィキとメンシェヴィキに完全に分かれて活動しますが、ともに帝政打破を目指して活動します。

ロシア革命にまつわるエピソード

革命で失われたロマノフの財宝

ロシア革命後成立した社会主義政権は、政治的な資金を得るためロマノフ家が所有していた財宝の多くを売り払いました。

「ロシア美人」の所有者、マリア・フョードロヴナ

たとえば、「ロシア美人」とよばれるティアラはニコライ2世の母であるマリア・フョードロヴナの所有品でした。しかし、革命の混乱から逃れるためマリアがイギリスに亡命した時、他の宝石類とともに「ロシア美人」はボリシェヴィキの手に落ちました。

1927年、「ロシア美人」はクリスティーズでオークションにかけられます。これをイギリスのマールバラ公が落札しました。ボリシェヴィキが手にしたロマノフの財宝の多くは、このように売り払われました。しかし、ロシア帝国の帝冠など一部はロシアに残され、現在は厳重に保管されています。

生存説が語られた皇女アナスタシア

1914年ころのアナスタシア

ロシア皇帝ニコライ2世の家族はエカテリンブルクで全員処刑されました。しかし、4女のアナスタシアが生存しているのではないかという「アナスタシア生存説」が流れました。殺害に関与した銃殺隊員たちは緊張を抑えるため飲酒しており、正確な記録がなかったことも生存説を助長します。

「偽アナスタシア」の一人、アンナ・アンダーソン

そのため、多くの「偽アナスタシア」が現れ、自分こそがロマノフ家の最後の生き残りだと称しました。もっとも有名な「偽アナスタシア」は、アンナ・アンダーソンという人物です。彼女はロマノフ家の遺産はアナスタシアである自分が相続する権利があると主張しました。

1984年2月に、アンナ・アンダーソンが死去したため真相は分からずじまいとなります。ところが、1994年に彼女が生前手術したときに摘出していた腸の一部がDNA鑑定されました。

ニコライ2世一家が殺害されたイパチェフ館の地下2階

その結果、彼女とロマノフ家の血を受け継ぐエディンバラ公フィリップの間に遺伝的つながりがないことが証明され、偽アナスタシア伝説にピリオドが打たれました。やはり、アナスタシアはほかの家族とともにエカテリンブルクで殺害されていたのです。

1 2

コメントを残す