ロシア革命とは?原因や指導者、その後の影響を分かりやすく簡単解説

ロシア革命の原因は?

皇帝や貴族に富が集中したから

ロシア革命の原因の一つは皇帝や貴族に富が集中し、貧富の差が大きかったことです。ロシアではロマノフ家の皇帝による皇帝専制(ツアーリズム)が行われてきました。そのため、富や権力は皇帝やその側近、あるいは貴族などに集中してしまいます。

同じころの西洋諸国が市民革命や産業革命を達成し、市民階級(ブルジョワジー)が成長していたのに比べると、ロシアはかなり後進的だったといえるでしょう。

農奴解放により領主のもとを去るもと農奴たち

では、一般庶民はどんな状態だったのでしょうか。まず、農民たちは1861年の農奴解放令まで移動の自由すらありませんでした。解放後も、大勢の農民は貧困の中にありました。また、労働者は低賃金で劣悪な環境での労働を強いられていました。

戦争で国民が疲弊したから

ロシアはサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦に連合国として参戦しました。これにより、ロシアはドイツ・オーストリアと戦闘状態に入ります。戦争がはじまると、ロシア軍はドイツ領東プロイセンに攻め込みました。

タンネンベルクの戦いに勝利したドイツのヒンデンブルク将軍

戦闘開始当初はロシア軍が優勢でドイツ領深く攻め込みます。しかし、戦線が伸び切ったところをドイツ軍に反撃され、タンネンベルクの戦いで大敗しました。この戦いで、ロシア軍は12万人以上の大損害を出します。

以後、ドイツ軍はロシア領深く攻め込みました。ロシア軍は形勢を逆転できず苦戦を続けます。その結果、ロシア国内の物流が圧迫され物資不足が深刻化しました。ロシア国民は食糧難・物資不足に苦しみ、一刻も早く戦争が終結することを願うようになります。

社会主義運動が盛り上がったから

ロシアでは19世紀末に社会主義運動がもりあがりました。1903年から本格的に活動を始めた社会主義政党のロシア社会民主労働党は、路線の対立からボリシェヴィキとメンシェヴィキに分かれます。

ボリシェヴィキは、ロシアで労働者や農民を解放するため暴力的な革命が必要であり、その実行は少数の指導者が中心となるべきだと考えました。ボリシェヴィキの中心人物はレーニンです。

メンシェヴィキの指導者マルトフ

それに対し、マルトフらメンシェヴィキは大衆の支持がなければ革命は達成できないとして、民主的な大衆政党を目指すべきと考えます。ロシア社会民主労働党は最終的にボリシェヴィキとメンシェヴィキに完全に分かれて活動しますが、ともに帝政打破を目指して活動します。

ロシア革命にまつわるエピソード

革命で失われたロマノフの財宝

ロシア革命後成立した社会主義政権は、政治的な資金を得るためロマノフ家が所有していた財宝の多くを売り払いました。

「ロシア美人」の所有者、マリア・フョードロヴナ

たとえば、「ロシア美人」とよばれるティアラはニコライ2世の母であるマリア・フョードロヴナの所有品でした。しかし、革命の混乱から逃れるためマリアがイギリスに亡命した時、他の宝石類とともに「ロシア美人」はボリシェヴィキの手に落ちました。

1927年、「ロシア美人」はクリスティーズでオークションにかけられます。これをイギリスのマールバラ公が落札しました。ボリシェヴィキが手にしたロマノフの財宝の多くは、このように売り払われました。しかし、ロシア帝国の帝冠など一部はロシアに残され、現在は厳重に保管されています。

生存説が語られた皇女アナスタシア

1914年ころのアナスタシア

ロシア皇帝ニコライ2世の家族はエカテリンブルクで全員処刑されました。しかし、4女のアナスタシアが生存しているのではないかという「アナスタシア生存説」が流れました。殺害に関与した銃殺隊員たちは緊張を抑えるため飲酒しており、正確な記録がなかったことも生存説を助長します。

「偽アナスタシア」の一人、アンナ・アンダーソン

そのため、多くの「偽アナスタシア」が現れ、自分こそがロマノフ家の最後の生き残りだと称しました。もっとも有名な「偽アナスタシア」は、アンナ・アンダーソンという人物です。彼女はロマノフ家の遺産はアナスタシアである自分が相続する権利があると主張しました。

1984年2月に、アンナ・アンダーソンが死去したため真相は分からずじまいとなります。ところが、1994年に彼女が生前手術したときに摘出していた腸の一部がDNA鑑定されました。

ニコライ2世一家が殺害されたイパチェフ館の地下2階

その結果、彼女とロマノフ家の血を受け継ぐエディンバラ公フィリップの間に遺伝的つながりがないことが証明され、偽アナスタシア伝説にピリオドが打たれました。やはり、アナスタシアはほかの家族とともにエカテリンブルクで殺害されていたのです。

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