ロシア革命の流れを年表形式で解説
1917年3月:二月革命
第一次世界大戦で劣勢だったロシアでは食糧難・物資不足が深刻化していました。そのため、1916年から首都ペトログラードでデモが頻発していました。
1917年3月8日(ロシア暦2月23日)、国際婦人デーにあわせて首都ペトログラードでは女子労働者の「パンよこせデモ」が起きました。他の労働者もこのデモに呼応したため、数日のうちにデモとストライキがペトログラード全域に広がります。
皇帝ニコライ2世はデモやストライキの鎮圧を命じました。しかし、鎮圧するはずの兵士たちが皇帝の命令を拒否し反乱を起こします。こうして首都守備隊の大半が反乱に加わったためニコライ2世は3月15日に退位を決断し、ロマノフ朝は滅亡しました。
国会ではブルジョワ階級の自由主義者が結成した立憲民主党(カデット)が主導権を握ります。そして、立憲民主党はリヴォフ公を首相とする臨時政府を立ち上げました。その一方、労働者や農民は各地でソヴィエトを結成したため、ロシアでは二重権力の状態となりました。
1917年4月:レーニンの四月テーゼ
1917年4月、ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先のスイスから帰国しました。ロシアと交戦中のドイツはレーニンが移動中に列車から降りないことを条件に領土通過を許可します。ドイツはレーニンの帰国でロシアが混乱することを期待していました。
ペトログラードに到着したレーニンは「四月テーゼ」とよばれる論文を発表します。この中で彼は「すべての権力をソヴィエトへ」と訴えました。「四月テーゼ」の中でレーニンは臨時政府との対決と即時停戦、ソヴィエトへの権力集中を訴えたのです。
しかし、レーニンの主張を受け入れたのはソヴィエトの中でもボリシェヴィキだけでした。ソヴィエトでは社会革命党(エスエル)やメンシェヴィキが多数派だったからです。ボリシェヴィキはそれまでの弾圧で力を弱め少数派となっていたからでした。
1917年7月:ケレンスキーが臨時政府首相となる
1917年7月、社会革命党のケレンスキーが首相となります。ケレンスキーは連合国との関係を重視したため戦争は継続しました。これによりケレンスキー率いる臨時政府とボリシェヴィキは対立を深めます。
ボリシェヴィキが臨時政府反対デモを組織すると、ケレンスキーは武力で彼らを弾圧しました。そのため、レーニンらは亡命を余儀なくされます。
しかし、右派のコルニーロフ将軍が反乱を起こすとケレンスキーは一転してボリシェヴィキに協力を要請します。これを革命の危機と考えたボリシェヴィキは彼に協力しコルニーロフと対決しました。レーニンはトロツキーらを幹部として赤衛軍を組織し革命防衛に努めます。
こうして赤衛軍の活動によりコルニーロフ将軍の反乱は失敗に終わり、ソヴィエト内部でボリシェヴィキの力が増大しました。
1917年10月:十月革命
「平和についての布告」
政権を握ったレーニンは第一次世界大戦に参戦している国々に無賠償(無償金)・無併合・民族自決を原則とした即時停戦を提案しました。これを、「平和に関する布告」といいます。アメリカ・イギリス・フランスなどはレーニンの新政権を承認せず、「平和に関する布告」も無視します。
この布告では、あわせて秘密外交の破棄も宣言しています。それにもとづき、オスマン帝国領の分割に関する秘密協定「サイクス・ピコ協定」を暴露しています。
「土地に関する布告」
「土地に関する布告」は、地主的土地所有を否定し、地主が持っている土地を国家が取り上げることを意味していました。取り上げられた土地は農民たちに均等に分割されます。
レーニンが「土地に関する布告」を出した目的は、農民たちの支持を得ることでした。十月革命は首都ペトログラードの労働者中心の革命であり、ロシア全土の農民たちが必ずしも社会主義革命を支持しているとは限らなかったからです。
1918年1月:ボリシェヴィキ独裁体制
1918年1月、ロシアでは憲法制定議会の選挙が行われました。その結果、社会革命党が第一党となりボリシェヴィキは第二党にとどまります。レーニンはボリシェヴィキが第一党をとれなかったことに危機感を持ち、憲法制定議会を強制的に解散させました。
こうして、ロシアでは選挙と議会政治が否定されボリシェヴィキによる独裁体制が確立します。一方、ロシアの政治から排除された社会革命党などは各地でボリシェヴィキ政権に対して反乱を起こします。
ボリシェヴィキ政権のソヴィエト軍が赤衛軍(赤軍)と呼ばれるのに対し、各地で反乱を起こした反革命勢力は白軍と呼ばれました。赤軍と白軍の戦いは1920年まで続き、最終的に赤軍が勝利します。