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田山花袋とはどんな人?代表作は?【功績や都市伝説、生涯年表について詳しく紹介】

田山花袋(たやまかたい)は明治の終わりから大正時代にかけて活躍した小説家です。幼い時に父を亡くし、苦しい生活の中でも、希望を忘れずに小説家への道を進みました。島崎藤村や国木田独歩とともに、日本の自然主義文学の基礎を築いた人物としても有名です。

花袋の代表作「蒲団」は中年男性の若い女性への屈折した思いを描いており、読者だけでなく文壇にも大きな影響を与えました。花袋は人間の隠しておきたい面を白日の下にさらしたのです。人間は誰にでも隠しておきたい面がありますから、花袋の作品はすべての人が無視できなくなりました。

「蒲団」の作者としてあまりにも有名な
田山花袋

小説があまりにも有名になってしまいましたが、花袋には詩や紀行文、記録文学などさまざまな分野の作品があります。それらは文学的価値があるのはもちろんですが、かつての交通事情や人々の風習を伝える記録としての価値もあります。

小説のイメージから敬遠されることも多い花袋の作品ですが、1つの面だけで毛嫌いするのはもったいない話です。人間の内面について考えるのに、花袋の作品ほど適しているものはありません。ぜひ、この記事をきっかけに田山花袋を見直してみませんか?

田山花袋とはどんな人物か

名前田山花袋(本名録弥・ろくや)
誕生日1872年1月22日
没日1930年5月13日
生地栃木県邑楽郡(おうらぐん)館林町
没地東京府豊多摩郡代々幡町
配偶者大田りさ
埋葬場所多磨霊園

田山花袋の生涯をハイライト

花袋が少年時代を過ごした家の内部

田山花袋は、1872年に現在の栃木県館林市で田山家の次男として生まれました。父は武士でしたが、明治維新を機に警察の巡査になりました。しかしすぐに西南戦争に従軍、戦死してしまいます。

幼くして父を失った花袋は、9歳で丁稚奉公(でっちぼうこう)に出されますが、2年ほどで実家に戻され、兄が塾頭を務める漢学塾で学びました。

丁稚奉公とは

商人のもとで下働きをする少年のことを丁稚といい、特に江戸時代に多く見られました。ほとんどの場合、丁稚は雇い主の家に住み込みで働きました。家賃や食費はかからない代わりに、決まった月給をもらえるわけではありませんでした。奉公には働くという意味がありますから、丁稚として働くことを「丁稚奉公」と呼んだのです。

その後は一家で上京、19歳のときに尾崎紅葉に弟子入りし、江見水蔭(えみすいいん)という小説家の指導を受けます。そして24歳頃には島崎藤村や国木田独歩らと出会い、親交を深めていきます。出版社で校正の仕事をしながら、1899年には結婚、徐々に小説家として認められていきました。

1907年にはそれまでになかった小説「蒲団」を発表。その後も精力的に作品を発表し、紀行文や記録文学にも実力を発揮します。しかし1928年に脳溢血を起こした後、咽頭がんであることも判明。1930年、58歳でこの世を去りました。

田山花袋の誕生と子ども時代

京橋区役所・花袋少年に東京はどのように映っただろう

田山花袋は現在の群馬県館林市で、父・鋿十郎(しょうじゅうろう)と母・てつの間に次男として生まれました。父は明治維新をきっかけに巡査になりましたが、花袋が6歳になったときに西南戦争に従軍して戦死してしまいます。

この影響もあったのか、花袋は9歳のときに足利に丁稚奉公に出されますが、翌年には東京京橋(現在の中央区南部)の有隣堂書店に奉公先が変わります。ここも結局1年ほどで辞めさせられ、実家に戻されることになります。何があったのか気になるところですが、後に花袋は丁稚時代を懐かしさとともに随筆に書いていますので、辞めさせられたことで、心に傷を負ったわけではなかったようです。

実家に帰ってからは小学校に復学し、その後は兄が塾頭を務める漢学塾で学びます。この兄は田山實(本名は実彌登)といい、「大日本地震史料」を編纂した人物であり、花袋の小説にも登場します。後に花袋も東京震災記を刊行しますから、不思議な縁を感じます。

田山花袋の上京・文学の基礎作りの時代

東京府庁 花袋もこの建物を目にしただろうか?

1886年、14歳になった花袋は兄に従い、一家で上京します。当初は軍人を志していた花袋でしたが、西洋文学に親しむようになり、神田の日本英学館で英語を学んだ期間もありました。

この後和歌を学ぶ傍ら小説にも興味を持ち、自分でも創作をするようになります。こうしてさまざまなことに興味を持っていた花袋は尾崎紅葉に入門、そこで江見水蔭を紹介されて小説の指導を受けるようになるのです。

この後は島崎藤村や国木田独歩との出会いもありますから、まさに文学の基礎作りの時代だったと言えます。この時期、花袋はいろいろと手を出していたように感じられますが、それがすべて後の花袋の作品に生かされています。花袋の生き方を見ていると、若い時の経験は大切なのだとわかります。

田山花袋の小説が人々に与えた影響!

小説は生きる上で欠かせないものになった

35歳のときに発表した小説「蒲団」では、今まで隠すべきものだった個人の屈折した思いだけでなく、性的な欲望までを赤裸々に描き、読む人々に衝撃を与えました。これは今までの小説にはなかったことだったため、新たに日本の文学に自然主義文学というカテゴリが作られたと言えます。

誰もが自分の中に持っているものを花袋は描いたわけですから、小説に引き込まれる人が増えるのも当然でした。小説は一部の高尚な人のものではなくなり、誰もが自分の心のために読むものへと変化しました。

この後花袋は次々と小説を発表しますが、そのどれにも実在のモデルが存在していたため、人々の好奇心は嫌というほどくすぐられたのです。

作品からわかる田山花袋の性格とは

小説の中の花袋だけが本当の姿だろうか?

大抵の人なら隠して起きたい箇所を赤裸々に書いてしまう花袋。彼の性格はどんなものだったのでしょうか。

小説の中のある意味人間的な姿が、そのままの花袋ではなかったはずです。自分の内面のことを正確に表すためには、それをまるで他人のことのように眺める客観的な目が必要です。花袋には常人よりも優れた目があり、そして作品を作るためには、自分や周りの人間の権利などは考えられない創作への情熱があったようです。

しかし創作を終えて我に返ったときの花袋は、冷静で常識のある人間だったと思われます。「蒲団」を発表した後は、モデルとなった女性をわざわざ自分の養女にしてから嫁がせています。この行動は花袋の責任感から行われたようです。

「蒲団」の発表で世間にスキャンダルが公表されることになり、女性は実家から結婚に反対されます。その結果、女性は実家から勘当されてしまいました。この責任を取るために、花袋は女性を自分の養女にして嫁がせたのでしょう。花袋は周りの人間を巻き込んでしまったことがわかっており、後始末をしたのではないでしょうか。

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