田山花袋の年表
1872年 – 0歳「田山花袋、誕生」
父の死
花袋の父の死によって残された家族は大きな影響を受けました。特に母の性質が変わってしまったことは、後に随筆に書かれているほどです。
また、生活も苦しかったのか、花袋は9歳のときに丁稚奉公に出されます。しかし、不都合なことをしたという理由で(これは何をしたのか明らかにされていません)、実家に戻されてしまいました。
その後12歳で漢学塾に入り、漢詩文を学んだ他、和歌や西洋の文学にも親しみました。実家に返されたことで、花袋の文学的な基礎ができたのです。
花袋、上京する
一家で上京した後、19歳のときには尾崎紅葉に弟子入りします。この頃に本名の録弥(ろくや)ではなく、花袋という名前を使うようになりました。
また、国木田独歩らと共著で詩集「抒情詩」を出版しました。自らの内面を表現した花袋の詩は、伝統的な七五調をとっているため、リズミカルで思わず声に出して読みたくなります。内容もわかりやすく、多くの人に受け入れられたことでしょう。
さらに日露戦争への従軍経験で、見たままの事実をありのままに描く平面描写を確立して、後の自然主義文学の基礎ができていきました。
1899年 – 27歳「花袋、結婚する」
友人の妹と結婚
27歳になり、作家としての力量が認められるようになった花袋は結婚をします。妻となったのは、「抒情詩」をともに出版した詩人仲間の太田玉茗(おおたぎょくめい)の妹・りさでした。この妻は後に花袋の作品「妻」にも自身とともに登場します。
後に「蒲団」では妻がいながら若い女性の弟子に心を動かしてしまう花袋ですが、妻には穏やかな愛情を持っていたと思われます。妻との間に4人の子どもに恵まれたこと、「蒲団」のモデルとなった岡田美知代と永代静雄の子どもを養子として引き取って育てたことがその理由です。2人の間に愛情がなければ、これらのことはなし得なかったに違いありません。
妻との生活のためには小説家だけではまだ心もとないと思ったのでしょうか。花袋は結婚と同時期に東京の出版社・博文館で校正の仕事をするようになります。
日露戦争と鴎外との出会い
1904年に日露戦争が勃発すると、花袋は従軍記者を務めることになります。この経験が見たままの事実を忠実に伝える平面描写を確立させたと考えられます。また、この戦争で花袋に大きな影響を与えたのは森鴎外との出会いでしょう。
花袋は第二軍の写真版に所属していましたが、このときの軍医部長が森鴎外だったそうで、花袋は帰郷するまでの間、頻繁に鴎外を訪ねたということです。
花袋は鴎外が好きで、その文学に影響を受けたことを自覚していたようです。「私の偽らざる告白」では、そのことをきちんと文章に残しています。そしてこの頃から、自分の小説の方向性が花袋に見え始めたようです。いよいよ、花袋の名作の数々が生み出されることになります。
1907年 – 35歳「小説「蒲団」の発表」
代表作「蒲団」は焦りの産物?
日露戦争当時、島崎藤村は「破戒」、国木田独歩は「独歩集」が好評を集めていました。これに花袋は焦りを感じていたことが、自らの経験を踏まえた「蒲団」の完成へとつながっていきました。
このため「蒲団」は「破戒」を強く意識した作品になっています。自分の恋愛をモチーフにした作品には森鴎外の「舞姫」がありますが、「蒲団」ほど自分の内面を赤裸々にした作品ではなく(中年の小説家が若い女性の弟子に勝手に片思いをして苦しむ、というのは普通は隠しておきたい事柄でしょう)、その意味でも「蒲団」は人々に衝撃を与えました。
藤村もその後、自分の姪との関係を描いた「新生」を発表。花袋にも衝撃を与えます。花袋の文学は自然主義文学に分類されますが、「蒲団」のおかげで自然主義文学の傾向が決まったと言っても良いかもしれません。
もう1つの代表作「田舎教師」の発表
「蒲団」の後、立て続けに花袋は作品を発表します。「生」「妻」「縁」の三部作の後に発表されたのが第2の代表作と言われる「田舎教師」です。利根川沿いの村で小学校教師をしている青年の生活を克明に描いた作品です。
最初は高い理想を持っていた青年が普段の生活の中に埋もれていく様子は辛いものですが、それだけに読む人の心を惹きつけたのでしょう。
作品の舞台となったのは、埼玉県の羽生市。妻の兄・太田玉茗が住職を勤めている寺に下宿をしていた青年・小林秀三がモデルになりました。彼の死後残されていた日記に花袋は創作意欲を刺激されたようです。
丹念に取材をして作られたために、この作品は明治期の羽生の様子を知る貴重な資料となっています。田舎教師の発表で花袋は自然主義文学の代表的な存在となりました。