三億円事件とは?事件の経緯や真相、犯人像、関連作品まで紹介

事件の一連の流れ

1968年12月6日:日本信託銀行国分寺支店長宛に脅迫状が届く

多摩農協に届けられた脅迫状

三億円事件が起こる前の1968年の4月ごろから、多摩地区の農協や駐在所などに脅迫状が送りつけられる事件が起こります。また1968年の12月6日には日本信託銀行にも、現金300万円を要求し従わなければ支店長宅を爆破すると予告した脅迫状が届きました。

のちの調査でこれらの脅迫状は、筆跡が同じ事から同一人物によることが判明します。これで多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件、三億円強奪事件が同一犯による犯行だと証明されました。

そしてこの脅迫状の存在は、犯人が3億円の強奪に成功する大きなカギにもなりました。

1968年12月10日

午前9時15分ごろ:現金輸送車が銀行を出発

1968年12月10日午前9時15分ごろ、東京芝浦電気府中工場の従業員4523人分のボーナス約3億円を積んだ現金輸送車が、日本信託銀行国分寺支店から出発しました。府中工場までは約3.5キロ、およそ10分の道のりです。

事件当時は現金輸送に武装した警備員は配置されておらず、銀行の関係者が自ら輸送していました。事件当日の現金輸送も銀行員4人によって行われており、彼らには日常の事と言えました。

午前9時21分ごろ:現金輸送車襲撃

現場に残された偽白バイ

府中刑務所の塀沿いの道に差し掛かった午前9時21分ごろ、現金輸送車は後ろからやってきた犯人が乗る偽白バイに停車を指示されます。輸送車までやってきた犯人は銀行員たちに「銀行の支店長宅が爆破されました、この車にもダイナマイトが仕掛けられているかもしれません」と言い放ちます。

犯人は銀行員たちに中を調べるように言い、自分は車の下を調べるふりをして発煙筒を点火しました。煙に驚いた銀行員たちは犯人の「すぐに車から降りて逃げろ」という指示に従ってしまいます。その隙に犯人は現金輸送車に乗り込み、白バイなどを残したまま逃走しました。

このような映画やドラマのような状況でも、前もって送りつけられていた脅迫状の存在によって銀行員たちは何の疑いもなく犯人の指示に従ってしまったと言えます。

午前9時28分ごろ:110番通報

110番通報

犯人の逃走後も銀行員たちは、3億円を爆弾から遠ざけるため輸送車を走らせるなんて「なんて勇敢な人だ」と思い込んでいました。

しかし、いつまでも爆発しないのを不思議に思い恐る恐る近づいてみると、ダイナマイトではないことが判明します。さらに白バイが偽物であることにも気づき、さっきの人物が警察官ではなかったことが発覚しました。

近くのガソリンスタンドに駆け込んだ銀行員たちは出発した日本信託銀行国分寺支店に電話をかけ、事態の顛末を説明します。それを受けて銀行の支店長から110番通報がなされました。

午前9時44分ごろ:警視庁による緊急配備

警察による緊急出動

通報を受けた警視庁は強奪された金額の大きさから、東京都全域に緊急配備を敷きました。都内すべての警察署・全署員に出動命令が出され、機動隊も含めると1万350人もの警察官が緊急出動しました。

緊急配備の2分後の午前9時46分ごろには県外に逃走する恐れを考え、神奈川県警・山梨県警・埼玉県警に配備協力を要請します。各地で検問を敷いて逃走車の捜索が開始され、犯人は袋のネズミと思われました。

ところが午前10時18分に犯行現場からわずか600メートルの国分寺史跡付近で奪われた現金輸送車が発見されます。車のトランクに入れられていた3億円はジュラルミン・ケースごと無くなっていました。

現金輸送車が発見された国分寺史跡

乗り捨ててあった現金輸送車のそばに別のタイヤ痕や無数の足跡があったことから、逃走用の別の車に乗り換えたものと思われました。これを受けて警視庁は逃走車が不明のため、全車両を止めての徹底した検問を行う羽目になりました。

午後3時44分:検問打ち切り

全車両を止めての検問を行った結果、師走という時期もあり各地で大渋滞を引き起こした主要道路は完全に機能停止状態に陥りました。午後3時44分、警視庁は泣く泣く全エリアの検問を打ち切り、犯人を取り逃がしてしまいました。

1968年12月22日:モンタージュ写真公開

公開されたモンタージュ写真

警察は市民の協力を得るため、1968年12月22日付の新聞で犯人とされる男のモンタージュ写真を公開しました。モンタージュ写真とは膨大な量の写真の中から犯人に似ているとされる人物を集め、合成してできた写真のことです。

似顔絵と違いリアルな写真だったため効果は絶大で、多い時には1日に1800件以上の情報が寄せられました。通報の9割は犯人に似た人物に関しての情報提供で、その確認作業に多くの捜査員が駆り出されました。

しかしいくら探しても犯人につながる人物は見つからず、捜査員たちは膨大な情報と確認作業に翻弄されることになります。

1969年4月9日:逃走車両発見

発見された逃走車両

事件発生から4ヶ月たった1969年4月9日、犯行現場から6キロほど離れた団地の駐車場に現金輸送車から乗り換えて逃走に使用された車両が、空のジュラルミン・ケースとともに放置されているのが発見されます。車にはシートカバーがかけられており、それが発見を遅らせた原因になりました。

状況から3億円をジュラルミン・ケースから移し変えた場所と推定されましたが、団地の駐車場という目につきやすい場所でありながら目撃証言などは得られませんでした。のちに自衛隊の衛星写真からこの逃走車両は、事件の翌日からこの駐車場に停まっていたことが判明しました。

空になったジュラルミン・ケース

これを受けて警視庁は「捜査の神様」と呼ばれた名刑事・平塚八兵衛を捜査本部へ招集します。平塚のモンタージュ写真に頼らず遺留品を重要視した捜査によって新たな容疑者にたどり着きますが、それでも犯人逮捕にはつながりませんでした。

1 2 3 4

コメントを残す