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応仁の乱をわかりやすく簡単に解説!起こった原因や結果、覚え方も紹介

「応仁の乱について簡単に知りたい」
「応仁の乱の結果とその後の歴史はどうなったの?」
「応仁の乱が起こった原因や場所は?」

応仁の乱に関して、以上のような疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか?

応仁の乱は1467年から1477年にかけて起こった、室町幕府を二分して起こった日本史上最大級の内乱です。しかも、かなり長期化した戦乱で、多くの人たちの利権や思惑が入り乱れていたため、内容が非常にわかりにくい出来事となっています。また、応仁の乱が勃発したことで日本の姿が大きく変貌し、その後の歴史にも大きく影響を与えました。

そんな応仁の乱とは一体どんな戦いだったのか?乱が起こった背景や場所は?結果やその後の歴史に与えた影響とは?など、応仁の乱に関してわかりやすくお伝えしていきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

応仁の乱とは?

応仁の乱の概要を簡単に解説

応仁の乱を描いた絵巻

応仁の乱は今からおよそ550年前に、当時の有力な大名たちが二派に別れて争った日本の歴史の中でも特筆すべき大乱です。当時の日本の中心地であった京都を舞台とし、約11年に渡り繰り広げられました。

しかし、乱が起こった原因やその後の流れが非常に複雑であり、勝者は誰だったのかなど不透明な部分も多く、非常に内容の捉えづらい戦いとなっています。また、乱が長期化しすぎたため、途中から戦う意義が見いだせなくなり、惰性で戦い続けた合戦としても知られています。

いつ起こったの?

「応仁の乱勃発地」の石碑

応仁の乱は、応仁元年(1467年)から、文明9年(1477年)までの約11年間行われた日本の内乱です。時代区分でいうと室町時代の中期頃に該当します。

元号が「応仁」の時に起こったので「応仁の乱」と呼ばれています。しかし、応仁の元号は3年で「文明」へと改元になりました。そのため、乱が行われた多くの期間が文明年間だったため、昨今では「応仁・文明の乱」と呼ばれることもあります。

場所はどこで起こった?

現在の京都市街地の様子

応仁の乱は、室町幕府の中心地であり、日本の都でもあった京都のど真ん中を舞台に行われました。京都の中心地が主戦場となった市街戦であり、一説には京都市街が焼け野原になったとされています(焼失範囲には諸説あり)。その結果、京都に現存していた多くの貴重な文化財が失われたも言われています。

応仁の乱の原因は?

応仁の乱発生原因のひとつを作った斯波氏の「斯波義敏」

応仁の乱が起こった原因は非常に複雑です。あえて一言で表すならば「将軍家と有力守護大名家の家督争い」が主な要因です。将軍家や有力守護大名家で家督争いが起こったことで、各家が二派に分裂し、それぞれの家の派閥同士が結託しました。こうして全国各地の守護大名たちもどちらかの派閥に味方する形となり、日本を二分する大乱へと発展していったのです。

応仁の乱が起こった背景

将軍と有力守護大名

室町時代の将軍御所「花の御所」

応仁の乱が起こった背景を確認するうえで、まずは室町幕府がどのような組織で運営されていたかを見ていきましょう。まず室町幕府のトップには将軍がいます。ただ全ての幕政を将軍が担っていたわけではなく、幕府の中枢には「守護大名」と呼ばれる人がたくさんいました。つまり、室町幕府の政治は将軍と守護大名によって運営されていたのです。

そして、守護大名の中でも特に力を持っていた家が、「細川氏」、「畠山氏」、「斯波氏」でした。この三家を「管領(かんれい)」と言い、それに続く「赤松氏」、「一色氏」、「京極氏」、「山名氏」の四家を「四職(ししき)」と言います。これらを総称して「三管四職(さんかんししき)」と呼び、室町幕府の中枢を担っていました。この三管四職である有力守護大名家と、守護大名の上に君臨する将軍家の利権が絡み合い、全国の守護大名を巻き込んだ応仁の乱へと発展していったのです。

有力守護大名家の家督争い

斯波家の家督争いをした「斯波義廉」

応仁の乱の背景には、管領家である「畠山氏」と「斯波氏」の2家で起こった家督争いがあります。 畠山家の家督を譲られた「畠山義就(はたけやま よしひろ)」に対し、反義就を掲げる勢力が一族内から「畠山政長(はたけやまながまさ)」を擁立しました。こうして畠山家が二派に分裂。続いて斯波氏では、当主の斯波義健が跡継ぎの無いまま亡くなったため、一族の「斯波義敏(しばよしとし)」と「斯波義廉(しばよしかど)」による家督争いが勃発しました。

将軍家の後継者争いと日野富子

足利義政と日野富子の実子「足利義尚」

こうして、室町幕府内で最も力を持っていた管領家が相次いで内乱を起こし、情勢は一気に不安定となりますが、さらに将軍家内でのお家騒動が重なります。当時の将軍であった「足利義政」と「日野富子」夫妻は子に恵まれず、将軍後継者として義政の弟「足利義視(あしかがよしみ)」を指名していました。

しかし、間もなく富子が懐妊、義政と富子は子供(後の「足利義尚(あしかがよしひさ)」)を授かりました。日野富子にしてみれば、義尚は自らのお腹を痛めて生んだ子です。当然、義尚を溺愛しています。しかし、夫の義政がすでに将軍後継者に義視を指名しています。このような状況の中、富子が義尚を将軍後継者に据えようと目論んだことで、情勢はさらに混乱していくことになるのです。

細川氏と山名氏の介入

応仁の乱の勢力図

なんとかして義尚を次期将軍にしたい富子は、義尚の後見役とされる四職家の「山名宗全」を頼り、義視と対立。一方、管領家の細川家当主「細川勝元」が義視を支持。この将軍家内の家督争いに、畠山家と斯波家の内紛が絡み合い、幕府内は二派に分裂しました。さらには、全国の守護大名家たちも、どちらかに味方する形で続々と参戦。

こうして細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)をそれぞれの大将格とし対立が激化。何度か小競り合いを行った後、応仁元年(1467年)5月に全面的な対決に突入します。やがて東軍16万人、西軍11万人とい言われる大軍勢となり、約11年にも及ぶ内戦「応仁の乱」の火蓋が切って落とされました。

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