応仁の乱の経過
応仁元年(1467年):開戦
応仁の乱勃発の数か月前、畠山氏を中心とした大きな争いが発生しました。畠山義就と畠山政長が家督を巡り、京都市街地にある上御霊神社において武力衝突したのです。この戦いは「御霊合戦(ごりょうがっせん)」と呼ばれ、山名宗全や斯波義廉らの協力を得た義就が勝利しました。
御霊合戦にて義就が勝利したことで、山名宗全の西軍有利を危惧した細川勝元が、東軍の巻き返しを図り東西両軍の大乱へと発展していきます。こうして応仁元年(1467年)5月26日の未明、細川勢が山名勢を攻撃し、応仁の乱の火蓋が切って落とされました。
将軍 足利義政の対応
8代将軍 足利義政の後継者を巡り、義視と義尚が争ったことが応仁の乱の背景に大きく関係していることはすでに述べました。ところで、当の義政はどちらを支持していたのでしょうか?乱が勃発した段階では明確な意思は示しておらず、停戦を命じるなど将軍らしいことをしています。しかし、戦闘開始から約1ヶ月後には義視と細川勝元の東軍を支持しています。
これにより、西軍の義尚を支持していた妻 日野富子から猛反発を食らいますが、義政は立場を変えることはありませんでした。将軍義政の後ろ盾を得た東軍は一気に勢いづき、西軍を圧倒。西軍が壊滅したと見た義政は諸将に降伏を迫りました。勧告に従い東軍に寝返る者、戦線離脱する者も現れ、乱は東軍勝利で終わるかに思われました。
大内政弘の上洛
戦況は東軍優勢で進みますが、ことはそう簡単には進みませんでした。中国地方の大半と北九州の一部(周防・長門・豊前・筑前と、安芸・石見の一部)に広大な領地を持つ守護大名 大内政弘が約3万の大軍を引き連れ上洛。西軍に味方したことで、形勢は一気にひっくり返ります。
大内氏の上洛で劣勢となった東軍の細川勝元は、上皇と天皇を将軍御所に移しました。「天皇、上皇、そして将軍義政を擁する東軍こそが正当である」と世間に示すためです。しかし、息を吹き返した西軍の勢いは衰えず、東軍を圧倒していました。
足利義視の戦線離脱と相国寺の戦い
開戦当初は優勢を保っていたものの、大内氏の援軍によって劣勢となった東軍。この事態に足利義視が動揺します。義視は、義政が裏で西軍に味方しているのではないかと疑い始めたのです。「このまま細川勝元の味方をしていては、義政との関係が悪化し自分は将軍になれないのではないか?」という被害妄想により戦線から離脱。義視を支持していた義政は愕然とし、逆に東軍に対し不審を抱き始め「次期将軍は義尚が相応しいのではないか?」と心が傾いていきます。こうして義政は政治への関心を無くしていき、乱の最中でも我関せずの態度を取り、遊興にふけるようになっていきました。
そして、応仁元年(1467年)10月、応仁の乱の中で最も激しい戦いとなった「相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)」が勃発します。優勢だった西軍が一気に決着を付けんと攻めかかりましたが、東軍はなんとか持ちこたえ完全決着には至りませんでした。また、東西両軍ともに甚大な被害を出し、以降の戦いでは大きな武力衝突が起こらないまま、約10年に渡り戦が続いて行きます。
応仁2年(1468年):足利義視の動き
戦線離脱し伊勢で情勢を見守っていた義視に対し、将軍 義政は上洛を要請します。義視は要請に応じ、東軍の陣中へ戻ってきました。そして義視は「日野勝光ら佞臣(主君にこびへつらう家来のこと)を排除してほしい」と義政に訴えます。「日野勝光」は日野富子の兄で、西軍の有力者の一人でした。
しかし、義視の訴えは退けられ「伊勢貞親」という人物を政務に復帰させました。伊勢貞親は、将軍後継者争いが勃発した際に義尚に味方し、義視の暗殺を義政に進言した人物です。この目論見が露見したため、一時京都から逃れていたのですが義政の意向により復帰することになったのです。伊勢貞親はもともと義政の右腕的存在であり、応仁の乱を終結させたい義政の意向による復帰だったとも言われています。
足利義視が西軍へ
一方、義視からしてみれば、日野勝光の排除を退けられたうえ、かつて自分を殺害しようとしていた伊勢貞親が復帰するとなれば、当然納得いくはずがありません。この状況に危機感を抱いた義視は庶民の姿に変装し京都を脱出、比叡山に逃げ込みました。それから程なくして義視は敵であるはずの西軍 斯波義廉の陣に入ります。
こうして西軍には「足利義視」と「足利義尚」の両将軍候補が並立する形となり、なおかつ義視が将軍に祀り上げられ「西幕府」が樹立されました。この時、現将軍の足利義政は一応東軍を支持していたため、京都に幕府が2つあり、将軍が2人いるという異常事態が発生。こうして応仁の乱はますます混迷を極めて行くことになるのです。
文明4年(1472年):両軍総大将の隠居
相国寺の戦い以降、大きな武力衝突は起こらず膠着状態となった東西両軍。参戦していた各守護大名たちの思惑が錯綜し、己の利権のために寝返ったり寝返られたりえを繰り返しながらダラダラと月日だけが流れていきました。こうして両軍ともに厭戦気分が蔓延しはじめます。
このような中、東西両軍の総大将である細川勝元と山名宗全が、相次いで隠居するという事態が起こりました。勝元は剃髪し、孫にあたる「聡明丸(後の細川政元)」に家督を譲りました。一方の宗全は、突然切腹しようとするなど「狐に憑りつかれたのではないか?」と噂されるほどの錯乱状態となり、孫の山名政豊に家督を譲り隠居しました。なお、勝元の剃髪は乱を和睦に導くための宗全へのメッセージだったのではないかという説もあります。
ともかくも、東西両軍の総大将が隠居しました。しかし、西軍の畠山義就や大内政弘、東軍の赤松政則や朝倉孝景と言った乱の中心人物たちは、自分たちの利害のためになおも戦い続けるのです。
文明5年(1473年):山名宗全、細川勝元が死去
細川勝元と山名宗全が隠居した翌年の文明5年(1473年)、両者が相次いで世を去りました。3月には宗全が70歳で他界、それから約2ヶ月後の5月には44歳で細川勝元が他界。また、翌年の文明6年(1474年)には、足利義政が実子の義尚へ将軍職を譲っています。とはいえ、義尚は9歳だったので実権は義政が握ったままでした。
こうして、乱の大きな発端であった将軍の後継者は義尚となりました。しかし、守護大名たちの利害が複雑に絡み合った結果、将軍後継者が決まり、なおかつ勝元と宗全の死を以てしても乱が治まることはありませんでした。もはや戦い始めた当初の理由など忘れ、個々の恨みつらみから成る利権争いのためだけの戦乱となっていたのです。
文明9年(1477年):応仁の乱の終焉
厭戦気分が漂う中、ようやく乱が終息していきます。乱の発端に深く関与していた斯波義廉は、文明5年(1475年)に尾張国に下国。さらに文明7年(1477年)には、主戦派の中心人物だった大内政弘が幕府の懐柔により領国の周防国へと帰国。そして、もう一人の主戦派 畠山義就は、大内政弘の帰国により孤立化することを危惧し、河内国に下国。足利義視は息子の義材(よしき、後の10代将軍足利義植)とともに美濃国へと退きました。 こうして西幕府は解体となり、約11年に渡り続いた応仁の乱は終結しました。
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