応仁の乱をわかりやすく簡単に解説!起こった原因や結果、覚え方も紹介

応仁の乱における登場人物とその関係性

人物相関図

これまで解説した通り、応仁の乱が起こった要因には、将軍家や守護大名家の家督争いが大きく影響しています。少々わかりにくい部分もあるので、以下に乱発生時の相関図を記載しますので参考にしてみてください。

応仁の乱発生時の主要人物相関図

主要人物

足利義政

室町幕府8代将軍「足利義政」

室町幕府8代将軍。応仁の乱が起こったのも、乱がなかなか終息しなかったのも、義政の優柔不断な態度が最も大きな要因とされています。言うことを聞かない守護大名たちに嫌気がさし、半ば将軍職を放棄していた節もあり、乱が起こっている真っただ中に茶の湯などの趣味に没頭していました。

応仁の乱を終息させられなかったことで、ダメ将軍として名高い人物ですが、一方で文化面では大きな足跡を残しでいます。現在、京都の人気観光地となっている銀閣寺は義政により建立されたもので、もともとは彼が余生を過ごす隠居所として建てられました。この銀閣寺を中心として栄えた「わび・さび」の文化は「東山文化」と言われ、今も多くの日本文化に受け継がれています。

日野富子

足利義政の正室「日野富子」

足利義政の正室です。彼女が次期将軍としてすでに指名されていた足利義視を廃し、実子の足利義尚を将軍職に就けようとしたことで、応仁の乱はさらなる拡大をみせてしまいました。また、明応2年(1493年)、戦国時代の始まりとされる将軍擁立事件「明応の政変」にも加担しているなど、北条政子、淀と並び、日本史の三大悪女の一人に数えられています。

また、かなりの守銭奴だったとも言われています。しかし実際は、政務を顧みない夫の義政に変わって、幕府財政を賄うために必死だったとも言われており、富子の悪評は後世作られたイメージにすぎないとされ、人物像が見直され始めています。

足利義視

将軍後継者候補の一人だった「足利義視」

足利義政の異母弟。当初、子が無かった義政に次期将軍として指名されていましたが、義政と日野富子夫妻に義尚が生まれたため、将軍の座を巡って義尚派と争うことになりました。これが応仁の乱発生の大きな要因になっています。開戦当初は東軍に担がれていましたが、足利義政の態度に翻弄され途中で西軍に属するなど、数奇な運命を辿りました。

結果的には、義尚が9代将軍に就任するも25歳で急逝したため、義視の子である「足利義材(あしかがよしき、後の足利義稙)」が10代将軍となっています。

足利義尚

後に室町幕府9代将軍となる「足利義尚」

足利義政と日野富子の息子。室町幕府9代将軍。富子の目論見によって、次期将軍に義尚が擁立されたことが、応仁の乱の大きな火種になりました。結果的には、義政から将軍職を譲られたのは義尚でしたが、就任当時はまだ9歳。そのため、事実上はずっと義政が将軍としての実権を握ったままでした。成人した後、応仁の乱によって失墜した幕府権威を復活させるため奔走しますが、25歳という若さで病没しました。

なお、義政の当初の考えは、「幼かった義尚が成人するまでの中継役として、義視を将軍にしようとしていたのではないか?」という見方も存在します。

細川勝元

東軍の総大将「細川勝元」

室町幕府内で最も力を持っていた守護大名「管領家」の一家「細川氏」の当主。勝元ら細川家の宗家を「細川京兆家(ほそかわけいちょうけ)」と言います。応仁の乱では足利義視を支持し、義視陣営(東軍)の総大将となりました。和歌・絵画・医療にも優れた才能を持つ文化人としても著名。鯉料理が好物だったと伝わっています。

山名宗全

西軍の総大将「山名宗全」

室町幕府内で強い力を持っていた守護大名「四職家」の一家「山名氏」の当主。足利義尚を次期将軍に擁立せんと目論んでいた日野富子の要請を受けて義尚を支持したと言われ、義尚陣営(西軍)の総大将となりました。西軍の諸将からは、「宗全入道」「赤入道」などと渾名されていたそうです。

畠山義就

畠山家の家督を争った「畠山義就」

室町幕府内で最も力を持っていた守護大名「管領家」の一家「畠山氏」の当主。名前は「よしひろ」とするのが一般的ですが、「よしなり」と読まれることもあります。彼がいとこの政長と畠山家の家督を巡って争ったことが、応仁の乱発生のひとつの要因になっています。

応仁の乱では西軍に与して参戦。西軍きっての戦上手として各地を転戦しました。 東西両軍の総大将である細川勝元と山名宗全が死去し和睦が進められる中にあっても、講和に反対し最後まで宿敵 政長と戦い続けました。

畠山政長

畠山家の家督を争った「畠山政長」

畠山義就の家督相続を良しとしない反義就派に担がれ、畠山家の家督争いを展開。このお家騒動が応仁の乱勃発の原因のひとつとなっています。応仁の乱では東軍に与して戦いました。乱後は管領に就任するも、不和となった細川政元(細川勝元の息子)に攻められ自害しました。

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